右翼系の団体がサザエさんを引き合いに出して、憲法第24条の改正を訴えているらしい。ちなみに第24条の条文は次の通り。
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
改正論者は父権の回復を訴えているのだと思うのだが、サザエさんは果たして適当な例だったのだろうか。もともと、サザエさんを書いた長谷川町子の家には父親がいなかった。早くに病死してしまったそうだ。このため、サザエさんには父性が希薄である。そのため、磯野波平にはそれほどの威厳はないし、マスオさんに至ってはほとんど存在感がない。彼らは外から収入を持ってくるための記号として機能しているにすぎない。
これが修正されたのはお茶の間の苦情によるものと思われる。例えば、漫画の中でのワカメちゃんはあけすけな性格だったが「女の子らしくない」ということになり、カツオとの間で役割交換があったという話もあるそうだ。このようにキャラが修正されてゆき、ついには時代も止まり(サザエさんができた当時にはテレビも炊飯器もなかったので、アニメのサザエさんはある程度変化していた)今の形が出来上がる。
長谷川家で大黒柱として機能していたのは母親であり、のちに姉妹は夫に頼ることなく出版社を設立した。
つまり、第24条否定派の人たちが本気でサザエさんを理想の家庭だと考えているのだとすると、その意味するところは簡単だ。彼らはサザエさんを理解していないのである。もしサザエさんの家を模倣するとしたら、日本のモデル家庭は母系家族でなければならないということになる。
確かに母系家族にはメリットがある。サザエさん一家には女性の間に主従関係がない。それはフネとサザエが本当の親子だからである。これが嫁姑の話になるとすると、物語は暗転するだろう。フネは無神経な嫁であるサザエに嫌味をいい、サザエはそれを耐える。そして、疲れて帰ってきたマスオにサザエさんが姑の愚痴をこぼすのだ。早く出て行きたいがあなたの稼ぎがないせいでそれが叶わない。それはあなたの稼ぎが悪いせいだということになるだろう。
ここでは考えなければならないことがいくつもある。サザエさん一家が生まれた背景が「戦争による混乱の結果」なのか、そもそも日本の家構造が母系的だったからなのかという問題である。この類の議論が錯綜するのは日本の伝統の模範が武家にあるという前提が置かれるためなのだが、実際には農村はもっと母系的だった可能性もある。
そう考えてみると「権威的な父親の元でまとまる」というような物語は日本では全く見られない。橋田寿賀子ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」でも父性は機能しておらず、実質的に取り仕切っているのは母親(母親が死んでからは血族ですらないお手伝いさんが代行している)である。父親が紛争解決に出てくる場合はたいていお金で解決している。橋田寿賀子にとって父性とは経済力(つまりはお財布)なのだろう。あのお父さんは大企業に勤めていたという設定なのだが、それにしてもいくら貯金を持っていたのだろうなどと考えてしまう。
もし、憲法第24条が家の規定であるとして、それを日本風に変えるとすれば、母系に改めるべきかもしれないと思ったりもする。
さて、今回例に出したのはどちらも女性の書き手による。一方の男性は家庭にほとんど興味を持たなかった。それは家が事業の主体でなくなってしまったからだろう。
一連の考察から、憲法を新しくするとしたら、事業や安全保障の主体としての家をどのように位置付けるかという議論が必要になることがわかる。だが、日本人は観念的なことにほとんど興味を持たないので、そもそもの議論が起らない。
普段の家庭を観察すると、子育てのために嫁が実家との結びつきを重視するという傾向が見られるはずで、父系の関係はむしろトラブルの元になっているのではないかと思う。つまり、経済的な裏打ちのないままで父系中心にまとめると、日本の家庭は相当混乱するだろう。