前回は「権利と義務」について考えた。国家は社会契約であると考えると契約者の間には権利と義務が生じる。だから権利には義務が伴うという言い方は必ずしも間違いではない。ただし、契約という前提条件があるので、その契約が不当な場合には破棄することもできるのではないかと考えた。そもそも義務は国家から押し付けられるものではないので「単に押し付けられた義務を唯々諾々と受け入れるべきだ」という主張は正しくないと言ってよさそうである。
ここから得た知見は「国家は社会契約によって成り立っている」という多分一般教養課程で習ったまま忘れていた前提だ。だが、私を含めて多くの日本人はこの社会契約という概念をうまく飲み込めていないのではないかと思う。そう思う理由の一つに「憲法は権力者を縛るものだから変えてはいけない」というものがある。とてもおかしな考え方だが一般的に受け入れられている。日本人の心性にあっているからだろう。
国家が契約によって成り立っていると考えると、憲法は国民と権力者の間に交わされる「契約」を文章にしたものであるということが言える。契約はどちらか一方が義務を負うものではない。例えば家の売買契約の場合、住宅メーカーは品物の品質を一定期間保証し約束した品物(やサービス)を提供する義務を負う。だが、一方で買い手側も期日どおりに対価を支払う義務が生じる。つまり売り手と買い手の間の関係は「相互的」である。つまり契約は相互的(ミューチュアル)である。
日本国憲法の場合にはやや特殊な事情がある。それはこれが国際社会と日本との間の契約になっているという点である。つまり、体裁としては日本人が国際社会に復帰するにあたって民主主義と平和を守りますよという約束が含まれている。が、基本的には国家と国民の間の約束である。
その意味では憲法は「権力者を縛る」という片務的な説明は間違いであると言える。そもそも、すべての国民が平等であるとされる民主主義国家に特権を約束された「権力者」という人はいないので、権力者を縛るという言い方そのものが成り立たないはずである。
ではなぜ「憲法は権力者を縛る」という言い方ができてしまうのか。
日本は村落だという話を始めた時に最初に使ったのは水を引くという比喩だった。日本人は有利な場所を確保してできるだけ多くの水を引き入れたい。多く水を引くと多く稲が取れるからである。これを利権という。そして同時に負担ははできるだけ軽くしたいと考える。このやり方だと「ズル」をする余地が生まれる。水門を操作して水を多く引き入れようとするのである。それをピアプレッシャーで防いでいるのが日本型の村落である。利益は村落単位で収集し分配する。そして周りの村はプレッシャーをかけることで行き過ぎを防ぐ。そこには村を束ねる社会という単位はない。社会がないのでお互いに協力することもない。
日本人はこの村落的な理解を背景にし「永田町という集落に多く水を引かせないために」プレッシャーをかけようとしているのである。これを「縛る」と表現しているのだろう。
ここからわかるのは「憲法は権力を縛るもの」と言っている人は実は永田町を権力者とは見ていないということである。もし永田町を権力者と認めるとしたらある程度の尊敬を持って協力を申し出るはずだ。つまり本来は「永田町だけにおいしい思いはさせない」と言っているだけなのである。牽制が目的なのだから対案などでてくるはずもない。
ではこの見方は単に立憲民主党支持者たちの被害妄想なのか。必ずしもそうは言えないだろう。「どっちもどっち」だからだ。
永田村が憲法を変えたいなら、社会契約説を取ってとなり村を納得させた上でプロセスを透明化しなければならない。しかしながら、実際には彼らはプロセスを秘密にし「日本型の統治」というブラックボックスを持ち出して一人で騒いでいるようにみえる。つまり、品物の中身は明確にしないで「とにかくこれを買え」と言い続けている。つまり、保守の人たちも独自の村を形成しようとしているだけである。彼らは「周りの村をまとめるから協力してくれ」と頼んできたのに実際には自分の村に多くの水を引き入れようとしているだけだったのである。
憲法改正の話はちょっと大きめの契約に似ている。そこで安倍政権を住宅メーカー「安倍ハウス」に例えて説明したい。
住宅メーカー安倍ハウスと買い手の間で契約して家を建てようとしている。営業の人の愛想はよく、なんだか素晴らしい家が立ちそうだった。いろいろ不安もあったのだが、安倍ハウスの営業の人は「なんら問題はない」と言っていたので安倍ハウスを選んだ。よその住宅メーカーの営業ははいろいろな心配を並べ立て「資材が高騰したら価格の見直しもあるかも」などというのだが、安倍ハウスだけは「どーんと大船に乗ったつもりで任せてください」という。なんだか安倍ハウスは安心できそうだ。
だが、実際の建物は何か変である。設計図とは違っており、なぜか安倍ハウスの事務所ばかりが立派になってゆく。これは違うのではないかと買い手が説明を求めると黒塗りになった指示書が出てきた。どうも安倍ハウスは大工さんへの支払いをちゃんとしていないようだし、材料も安いものを使っているようなのだが、なにぶん指示書は黒塗りなのでよくわからない。そこで買い手が怒ったら、安倍ハウスは「もともとこの契約書は我々の気風には合わないから変えたい」とすごんできた。どう変えたいのかと聞いても要領をえないが、「客が住宅メーカーに指図するとは生意気だ」という社員がいるという噂も聞く。なぜか定期的にそのような声が聞こえてくるのである。
そこで後から出てきた弁護士が「契約書は安倍ハウスを縛っている」というのも無理からぬ話だ。実際には契約書は「ミューチュアル」なものなので、どちらか一方が縛られるということにはならない。だが問題は実はそこではない。信頼が生まれれば契約書について考えても良いわけだが、とてもそのような状態にあるとは言えない。だからまず「契約を守ってくれ」というのが先なのである。
「契約書は未来永劫変えられない」とか「契約書は安倍ハウスを縛るためだけにある」というのは間違いだし無理筋だということは普通の社会人なら理解できるはずである。だが、契約書というものを理解できないにもかかわらずサインしてしまった人(あるいは投票という契約に行かなかった人)は「とにかく、この契約書じゃなければダメだからな」とすごんで見るしかない。いかんせん契約がわからないから「なんらかの理由で変えられてしまったらどうしよう」という不安を抱えることになる。つまり、社会契約という概念を理解しないでいるととても不安な気持ちを抱えたまま生きて行かなければならなくなるわけである。
白紙委任(つまり投票に行かなかった)人も含めて、安倍ハウスで家を買ってしまったわけだから、この人たちに付き合う必要はある。そしてそのためにはそれなりの常識を持つ必要があるということになる。
憲法に戻ると「社会契約などという概念は日本の気風に合わない」という人が出てくるのは想像に難くない。だが日本の憲法は国際社会に復帰するために交わした約束であるという側面もある。それを無視するのかということを聞いてみると良いだろう。相手は多分話をごまかすだろうが、その時点で護憲派の勝ちである。
落ち着いて考えてみると、法律も哲学もすべて大学の「パンキョウ」で習ったものばかりである。授業には出ていたが正しく理解はしていなかったし、わからないならちゃんと質問しておくべきだった。その意味であの時サボッたツケは意外と大きいのかもしれないなどと考えた。不安をなくすためには自分の頭で考える必要があるわけだが、そのためにはある程度の知識の集積が必要なのである。