毎日色々なネタを書いている。このところわかったことが色々とあるので少し整理したい。今回は個人的なメモなので結論はない。
情報発信をしているとなんらかの経済的なサポートが必要になる。例えば政党は支持者が必要であり、雑誌は購読者が必要だ。そして、ページビューが伸びる話題というものがある。それは「誰かや何かを叩く」というものである。毎日何かを書いているとこれが顕著にわかる。誰かを叩くと露骨にページビューが伸び、内省的・考察的なものになると沈む。今の日本では多分、原因を内側に向けて情報発信してはいけないのだ。これはいいことなのか、悪いことなのか?
Quoraの質問を見ていてもそれがわかる。例えば安倍首相批判やトランプ大統領批判はそこそこ盛り上がるし、日本の学校は「全体主義的で画一的である」というような主張にも支持が集まりやすい。「韓国はなぜダメなのか」という質問もよく出てくる。これは他国を貶めることにより「色々言われているが日本はマシだ」というような気分になれるからなのだろう。こうした情報発信には引きがある。
だが、誰かを非難してもそれが問題解決につながることはない。新潮45の廃刊や民主党政治の失敗を見ていてもわかるように、やがては飽きられて支持を失う。
民主党政治を見ていると誰かを叩くことの意味がもう少し見えてくる。彼らが支持を集めたのはそれが閉塞感の打破につながると考えらえていたからである。今の野党の問題点は明らかだ。問題点にばかり注目しているので、野党の言説を聞いていると「日本には夢や希望がない」ような気分になり、なんとなく気分がアガらない。つまり、民主党が支持されていたのは問題を追求していたからではなくそれが「お手軽な開放感につながる」という期待があったからだ。この期待感が失せてしまったために民主党は<オワコン>になってしまった。気がついていないのは当事者たちだけである。
では人々はなぜ誰かが「一発逆転」のを待ち続けてしまうのか。またそうしたチャンスがないと知ると下を向いて黙り込んでしまうのか?
日本では公共という概念がない。自分たちで社会の問題解決をしようとは思わない。このため日本人は政治について語りたがらない。なぜ政治について語りたがらないのかということすら語りたがらない。日本人が語りたがらないことは二つあるようだ。
一つは自分たちで社会を変えられるというようなことは決して語りたがらない。同じように創造力というトピックにも全く人気がない。この想像力やクリエイティブを語りたがらないという傾向はこの10年程度変わっていないように思える。日本人は自分たちの村を自分で変えられるとは思っていない。だから勝っている村は勝負に熱中し、負けている村は他の村と比べて「自分たちの方がマシだ」と思いたがる。
このほかに、個人で情報を発信するということに恐怖心を持っているということも語りたがらない。なんとなく漠然とした不安はあるようだが、それが具体的に何なのかということを聞いてみると答えがかえってこないのだ。これについては少し考えた。多分「普段個人として突出した人たち」を攻撃しているからだろう。内面に他者に対するやっかみの気持ちがあるので、自分もそうなりかねないということに気がついているのである。無力感とやっかみを感じているのである。
このように日本人には「私」がなく「我々」と「それ以外の奴らあるいは奴」という背景文脈を強く意識して生活しているのだが、決してそれを認めたがらない。それだけソトに対する苛烈な差別意識と攻撃性を持っているということなのだろう。そして個人ではそれを決して表出しない。日本人は群衆になった状態でソトを攻撃することを好み、ウチでは好ましい個人でいようとする。
このウチとソトには大きな問題がある。ウチで解決すべき問題を「ソト」に排出して処理をしないというのは実は空気を汚す公害と同じ図式である。攻撃性という毒を持っていてそれが「他人から見たソト」つまり「誰かのウチ」を攻撃するのだ。公害処理は国の役割だが情報公害を処理する人は誰もいない。
自己と呼ぶか自我と呼ぶかは別として、日本人の自己意識が社会化されていないというような論評は探せばいくつかあるようだ。ウチとソトを分けるという話もよく聞くし、集団で意思決定をして中心を持たないという社会学的な論評も多い。日本人は概念的な村を意識して生活していることは間違いがなさそうだが、これがまとまった理論にまではなっていないし、それを国際比較したような研究もない。
社会化・公共化の原点は「個人の考え」(このブログでは内心と言っている)なのだが、この内心という考え方そのものも全く理解が得られないところをみると、そもそも日本人は文脈なしに個人が考えを持つということそのものを想定していないのかもしれない。つまり、日本人の規範はもともと内向けと外向けのダブルスタンダードであり、コンテクスト抜きの公共も内心もありえないのである。
日本には公共がなく、公共のなさを突き詰めてゆくと内心のなさに行き着く。だが、この短いステートメントが日本人に理解されることはないだろう。「社会の中の私」がないのだから、公共も内心もそもそも「絶対に」理解されえないからである。ところがその上に西洋的な価値観に従うべきだという規範意識がありもともとのアジア的・島国的なものをどこか恥ずかしい「裸の意識」と感じているのかもしれない。他人に聞かれて裸の自分を見せる人はいないだろうし、鏡で正視してみることもできないだろう。だから、日本人にこの手の質問をしても絶対に答えは返ってこない。が面白いことに海外で生活している日本人はこれを意識している人が多いようだ。ゆえに多分主語は「日本人」ではなく「日本社会」だろう。
社会化はされていないのだが、マスコミという大きな塊はあるので、これがときどき「あたかも意思を持っているように」動くことある。ところがこの動きはいつまでも続かない。このように日本にはいくつかの出来損ないの村がある。ワイドショーは幻想の村だ。
このため、多くの人が「マスコミがうわーっと動けば物事が劇的に変わるのに」と思いながら実は何も動いて行かないことに対してフラストレーションを持つのだと考えられる。軍隊が否定され、官僚が多様性と複雑さに耐えられなくなり、政党政治が改革に失敗した今、我々が希望を抱くのは世論がいつか目を覚まして自分の思い通りの理想社会が作られることなのかもしれない。だが、それは多分幻想に過ぎない。そんな集合自我はないからである。
こうして思考は最初の点に戻る。こうした炎上型の言論にはニーズがあるために情報を発信する人はこの炎上を利用した注目を浴び続けなればならない。こうして、情報を発信し続ければし続けるほど問題解決は難しくなり、行動者としての支持は得られなくなってしまう。だが、時々それが画像を結んだように見えてしまうので人々は幻想を抱き続けるのだ。
このループが回路となって「閉塞状況」を作っている。