普段いろいろなツイートをするのだが、返信は滅多にない。これだけいろいろ書いているので、憎悪に満ちた返信があってもよさそうだが、それはない。なぜなのだろうかと思うことがある。
昨日面白い体験をした。民進党の蓮舫参議院議員が「日曜討論に岡田さんが出る」とツイートしていた。昨日は憲法記念日なので日曜討論はない。まあ、別にどうでもいいことなのだが、面白いので突っ込んでみた。すると「日曜討論ではなかった」という旨の返信があった。
すると、蓮舫議員と私宛にいくつかのレスポンスが来た。多分蓮舫議員に構ってもらいたい人だったのではないかと思うのだが、よく分からない。なかには「お前は民進党支持のようだが、民進党には何もできないではないか」というものもあった。
そこで思ったのだが「民進党」というのは「公衆の面前で叩いてもよい」存在になっているらしい。こういったことは自民党の政治家には起らないし、日本を元気にする会でも起らない。さらに民進党の議員では長島昭久議員のところでもあり得ない。
多分「蓮舫さんが女性だから舐められている」のだろうなあと想像した。つまり「この人は弱い」という人が叩かれるのであって、いじめの構造に似ている。だが、民進党の女性議員をイジる人は、どのような根拠で「この人はイジっても怖くない」と思うのだろうか。こういうことを研究した人はいないのではないだろうか、などと考えた。
いずれにせよ、このような言論空間では意見そのものには情報的な価値はないということになりそうだ。誰が発信しているかが重要であり「いじめてもいい」というフラグが立つととりあえず叩く訳だ。こうしたコミュニケーションにも機能はあるはずだ。多分、意見交換というよりは社会秩序の維持機能があるのだろう。つまり「誰かをイジってもいい」と思う人は「誰か別の人にイジられている」社会の駒なのだ。
この仮説は少し残酷だ。つまり、選良教育と一般教育がある。選良教育では情報交換や討議といった意思決定に関わるコミュニケーションが行われる。一方で、一般教育からはそのような技術は予め排除されている。代わりに社会秩序維持のための方法を学ぶのだ。社会秩序維持の技法を学ぶ訳ではない。維持されるメンタリティを育成されるのだろう。
この延長線上にあるのが「弱い靭帯」の不足である。これは個人的にはかなりの発見だった。インターネットのコミュニケーションをBBSの時代からやっているのだが、当時はどこの誰か分からない人と会話をするのが楽しかった。ネットワークとしては「モデレータ」のいるスタイルで、参加者は会話に返信する義務はなかった。気に入れば参加すれば良いし、忙しければ返信しなくても構わない。誰も強要する人はいなかった。ただし、自分の趣味のBBSが荒れてしまうのは避けなければならないので、それなりの自律的に秩序が維持される。このようなフォーメーションが成り立っつ条件は2つある。
- 限られた人たちが参加する。知らない人たちのコミュにケーションに参加しても平気な人たちだ。
- モデレーターがお金を払って私的な場を維持している。
こうしたつながりを社会学では「弱い紐帯」と呼ぶ。義務や上下関係の薄い関係と言える。弱い紐帯を持っていると、情報の幅が広がる。だが、現代では、多くのネットユーザーにはこうした区分はしないらしい。管理される教育を受けた人たちにはそもそも「弱い紐帯」という考え方がないのかもしれない。
例えば、LINEには弱い紐帯という考え方はない。だから、Twitterでも「今日と明日は返信できません」と断りを入れる人がいる。会話を返すのを義務だと考える「強い関係性」なのだが、これがLINEいじめの原因にもなっている。
今回は「支持者ではない」と言っているのに「民主党は何もできない」と主張をぶつけてくる人がいたのだが「ああ、そうだろうなあ」というくらいにしか思えなかった。多分「会話をする人が必ずしも意見に賛同しているとは限らない」ということが、本質的に理解できていなかったのではないかと考えられる。
そこで、そもそも人はどのようにして弱い紐帯という概念を学ぶ(あるいは学ばない)のだろうかと考えたわけだ。
この考察が正しいかは分からないのだが、日本には「管理して意思決定する側の教育」と「管理される側」の教育の2種類がありそうだ。つまり、Twitterでどのような意見を発信するという、たいへん下らない些末なことが、ある階層からみると「社会的なスティグマ」になってしまうということである。
この結論の残酷なところは、こうした態度が再生産されるということだろう。つまり、通常の教員養成課程では「管理されている人が、管理される人を作るための教育」を行うということになる。いったんこのカテゴリに入ってしまうと、そもそも情報交換して意思決定するということができなくなってしまう。
これは「管理する側」に都合がよいように思えるのだが、実際にTwitterで行われている政治議論を見ると分かる通り、本来は「意思決定する側」の人たちが絡めとられてゆく。そもそも「管理される側の教育」しか受けたことがない人たちが、意思決定しているようにも感じられる。