アメリカでハワード・シュルツが炎上している。独立系候補として大統領選挙に出ようとしたことが反発されているようだ。
アメリカは民主党と共和党の中でコンテストを行い、最後「ガチンコ勝負」で最終決戦をすることになっている「二大政党制」の国である。キモになっているのは衆人環視の中で戦うということである。つまり、裏ネゴができない国なのだ。
イギリスも同じようなところがある。議院内閣制なので大統領選挙はないが庶民院は単純小選挙区制なのだそうだ。最近では選択肢がないということで比例代表制が必要だという人もいるようだが、これはイギリスでは難しいのではないかと思う。
イギリスは(国政レベルでは)まずマニフェストを決めてその良し悪しを2つ絞って良し悪しを決めさせるという制度になっている。そしてこの約束には極めて強い拘束力があるようだ。例えばリファレンダムで「EUから離脱したい」と決まったら、とにかくその結論は大切にして条件交渉をし、その条件交渉が決裂したら「とにかく決められた通りにEUを離脱する」という流れになりそうである。一旦決めたらやるのがイギリスなのだ。
アメリカの事例だけを見ていると、アングロサクソン系は裏ネゴができないのではなくしないだけなのでは?と思えるのだが、イギリスは本当に土壇場の当事者間調整ができないらしい。
Newsweekによるとイギリス議会はEU離脱議論では膠着状態に陥っており、このまま2019年3月29日にハードブレグジットやむなしという状態になっているようだ。ブレグジットはこのまま突き進めばかなりの不都合が予測される。確かにリファレンダムの結果はあるが、それが通らないとなれば当事者間でまあまあなあなあにしてもよさそうである。でもイギリスはそれができない。議会が一向にまとまらないのである。
ここから次のようなことがわかる。
- イギリスは表の契約を重要視し、議論をオープンにしたがる。
- 表の議論の結果は、あとで不都合がわかっても遵守される。
- 個人の決定が重要視されるので、政党執行部主導によるインターナルな議論(裏ネゴ)がまとまらないことがある。
- アメリカまで含めると、候補を二つに絞って民意を問うのが一般的。選択肢を多様にしすぎると民意が割れて最終的に割れなかった人たちが票を総取りすることがある。するとまとまれなかった多数派が不満を持ち社会が不安定化する。
同じように「個人主義」と見なされがちなドイツでは違った方法が取られる。ドイツは表だった契約で選挙が行われるが、そのあとで連立交渉が行われる。ここで政策の妥協が起こるのだが妥協の結果は公表されている。つまり、イギリスのようにいったん結論を決めたらそのまま突っ走るというようなことはせずに「結論を決める枠組みの交渉」に時間をかけるのだ。アングロサクソン式とは逆になっている。ロイターによると妥協はポストの配分で決まるようだ。BBCによると、どうしても納得できないことがあると、連立離脱を行うとのことである。
- ドイツも契約を重要し、議論をオープンにしたがる。
- 表の議論の結果は大枠を決めるだけで、細かい点については妥協と調整が行われる。この妥協も公表される。
- 表の約束が維持できなくなると、再び選挙が行われる。
- 有権者は多数の候補の中から自分にふさわしい人たちを選ぶ。
ここから現代の日本について考えてみたい。自分たちの国なので細かいところが目に入ってしまうのだが、割り切って丸めてしまいたい。日本は表向きの約束(マニフェスト)と裏の調整(利権配分)を分けて考える傾向にある。また、多数派が利権配分権を握ってしまい少数派が排除される。すると少数派は意思決定に携わる意味を失ってしまうので、意思決定の妨害を始める。このため本質的にアイディアのコンテストができない。
- 日本は契約を重視せず、表の議論と裏の議論を分ける。
- 表向きの議論は意思決定の正当化のためのキレイゴトという役割を持ち、受け手もそれがわかっており、裏の利害交渉とは明確に区分される。
- 裏の議論はかなり緻密に行われる。
- 裏側では長期的関係性を配慮した妥協が起こるが、違いが表面化すると妥協ができなくなり、膠着状況に陥る。
- 個人の意思決定は重要視されず、個人は組織の損得(組織としての裏の決定)に支配される。
- 有権者は自分属する集団の利益に基づいて判断し、表の議論を信用しない。日本人は利益集団以外の公共や社会を信じないし、内心がないので公共の名の下にまとまることはできない。
もちろん、利益共同体が崩れてゆくに従って日本にも社会を作るべきだという機運はあった。そこで、日本にも表向きの約束事に沿った選挙をしようという動きにつながってゆく。それがマニフェスト(コトバンク)である。
しかし実際には有権者は「絵空事である公共」のマニフェストを読まず、民主党の藤井裕久氏も「どうにもならなければごめんなさいといえばいいじゃないか」と吐き棄てた。大蔵省出身の官僚であった藤井は選挙の約束など単なる飾りごとであり実質的な意味はないと考えたのだろう。確かにそうなのかもしれないが、それは言うべきではなかった。
もともと、日本人は表向きの約束を信用しなかったが、かといってそれを無意味だと思っていたわけではなかった。すくなくともリチュアルな意味合いはあった。しかし、あからさまな約束破りが起き、野田佳彦が「結局消費税しかない」と言ったことで儀式的な神聖さもなくなった。その時にはわからなかったが、この6年で劣化はさらに進んだ。
なんでも言っていいなら何を言っても良いということになり、マニフェストは壮大な願望リストになった。そればかりかその願望リストに現実を合わせるようにさまざまな嘘が強要され、あるいは自発的に嘘をつく官僚まで出てきて現在に至っている。
今、国会で安倍首相が「日米関係は私とトランプ大統領の個人的な信頼関係に基づき未だかつてなく強固なものになった」と読み上げている。これに合わせた形で様々な官僚のステートメントが書かれ、現実の不具合は全て語れなくなってしまった。また、北方領土という言葉は使わないとロシアに内密に約束してしまったため、国会で安倍首相はそれが言えなくなっている。このように表向きの言葉が利害調整を阻害し、利害調整のための言葉が表の言葉を縛る。そしてその証明のしようのない嘘を「嘘だ嘘だ」と騒ぎ立てる野党が国会の時間を限りなく浪費しているという具合である。
このようにして、表の議論が裏を縛り裏の議論が表を縛るということが起きている。我々は本音と建前の分離を旧弊でアジア的な後進性だと思っていたわけだが、欧米式の「進んだ」国家統治方法を取り入れられるわけでもなく、かつての「旧弊な」組織運営すらできなくなりつつあるのである。