特性を持っている人は家庭内に暴力を持ち込む。被害者たちは「自分がどこかまちがえているのではないか」と考えるかもしれない。しかし、結論から言ってしまうと被害者は悪くない。暴力を振るう人に問題があるだけである。では何が問題なのだろうか。そして暴力を振るう人は「悪意のあるいけない人間」なのだろうか。
暴力を振るう人には二種類ある。実際に腕力を振るう人もいるだろうし、言葉で相手を責め立てたり無言のプレッシャーをかけたりする人もいるだろう。こういう人たちをみると何か名前をつけてやりたくなる。すなわち「〜人格障害」などと呼べばその病理が明らかになるだろう。しかし、レッテル貼りは大して役に立たない。私たちは精神科医ではないし、そもそも精神科の医者のつけるレッテルもその場しのぎのものである可能性が高いからである。
こうした閉塞状態を考えるためのキーワードは「取り引き」である。ある種の人たちは人間関係を取引と考えており、そこから逃れることはできない。かといって、治療の対象になる人格障害でもないので、一生治ることはないし、そもそも自覚もできない場合も多いだろう。
この「取引」が理解できれば対処法もわかる。取り引きなのだから、そこから撤退してしまえばよいわけである。しかし、これも突き詰めて考えて行くと「取引関係を受忍する」ということになる。ここが少し厄介なところでもある。
こうした取引関係に巻き込まれたら逃げるのが一番なのだが、逃げ切れない場合には「取り引き」に応じてしまうという手もあるということだ。つまり、感情的に切り離して応じられないことは応じないようにすればよいのだ。物理的に撤退するわけではなく心理的に撤退すると言い換えても良い。
家庭内暴力や虐待を行う人というと、その暴力性だけが問題になる。しかし、実際に問題になるのは取り引き全体だ。例えば「家庭内暴力を振るう人が実はそのあと優しくなる」ことがある。これを通常の神経を持った人がみると「実は優しいのだ」とか「実は反省しているのだ」と思えるかもしれないし、実際にそれは当たっている。
これが普通の人と違っているのは実はこれも取り引きの一部になっているうということだ。つまり「優しいのも厳しいのもある一つの現象の両極端の現象だ」と言えるだろう。だから「その人の優しい局面」を当てにしてはいけない。
また別の人は泣いてみせることになる。これを無視したりすると「自分は優しくない人間なのではないか」と思えてくる。しかし、これもある種の演技である。よく観察していると泣いたあとで何もなかったかのように別の行動に移ることがある。
これらの関係に共通するのは「ありとあらゆる手段を使って人間関係をコントロールしたがる」という点だ。つまりこれが取引の正体なのである。だが、なぜ人間関係をコントロールしなければならないと考えるのかがわからない。
家庭内暴力と無縁な家庭に育ったとしても、実は娘が大人になってから「母親が共依存的な関係を求めていた」ということに気がつくケースがある。あるいは結婚して「正常な」家庭を得て初めてそのことに気がつくこともあるだろう。夫型の母親をみて「普通の親子関係」を初めて目撃するからである。そこで初めて「母親が重い娘だった」ということに気がつくのだ。その背景にあるのはある種の見捨てられ不安である。つまり、母娘が別の人格であるのだから見捨てられてしまう可能性があるということだ。そうした不安を持った母親はいつまでも娘を自分の一部として縛ろうとする。これが取り引きの一番わかり安い事例だ。同じように暴力的な夫は妻を従属物と考えているが、同時に見捨てられる不安も抱えている。だからこそ人間関係が取り引きになってしまうということになる。
こうした人たちと「マキャベリスト」が同一視されることがあるかもしれない。しかしマキャベリストとは相手から良い条件を引き出すために理性的に演技をする。今回の取り引きをする人とが異なるのは、その局面局面では「真剣である」という点だ。だが、それらを総合してみるとちぐはぐになっており「本当のその人」が見えてこない。
だから、暴力を振るう人も、そのあと優しく接する人も、泣きわめいたあとで何事もなかったかのように別の用事を始める人も、全て本当のその人のその場その場の姿である。つまり、核になる人格がないのだから「本当に分かり合う」ことはできない。
そこで「条件を作って、それ以上踏み込ませない」という作戦が有効になってくる。本当の自分を持っている人であればこんなことをすれば怒りだすだろうが、取引をする人はこれをすんなりと受け入れる。
暴力を振るう夫がいつまでも暴力と優しさの間を揺れ動くのは、相手が取り引きを理解しないからである。つまりどうすれば自分が支配できるかの「正解」がわからないために暴れるのである。そこで条件を提示すれば相手には正解が見えるという理屈になる。
被害者になる人が受け入れられないのは相手に「本当の私がない」という点だろう。例えば家庭内暴力の被害者は「自分がちゃんとわかってあげていないから暴力を振るうのだが、本当にわかりあえれば問題は解決するかも」などと思いがちだ。しかし、本当の自分がないわけだからこうした相互理解はできない。もし、その関係が切れないのなら本当に相手を理解してやる必要がある。それは感情を全て排除して「単なるお取り引き先」として接することなのである。
しかし、これはなかなか難しい。例えば日本には「思いやりのある優しい母親」という規範があり、そこから外れた親子関係は欠損のあるものだという思い込みがある。また男性の場合は「無口で不器用」な父親が賞賛されることがあり、例え理不尽な暴力や言動で苦しめたとしても「理解しない周囲が悪い」などと思われることがあるからだ。こうした規範意識が被害者を苦しめる。
これに加えて「自己責任論」も根強い。レイプされた女性ですら「隙があったのではないか」とか「実は何か期待していたのでは」などと責められることがある。レイプは第三者が客観的に観察できる事実を含んでいるが、言葉による暴力などは第三者がみてもよくわからないことが多い。そこで「真摯に向き合って話し合いを重ねては」などというアドバイスをする人がいる。だが、それは被害者を苦しめることになるだけかもしれない。
これを「人格障害だ」と考える人もいるだろう。確かになんらかの欠落があるように思える。問題になっているのは共感能力だろうと思われる。人間には相手を内面化して社会的な絆を作る能力がある。この社会性構築能力にはかなり高次の能力が絡んでいるのではないだろうか。この絆が結べない人はそもそも「分かり合った他人同士が社会を作る」ということが理解できず、全ての人間関係がその場その場の取り引きになる。時間をかけた人間関係に生じる絆が見えないのだからその基盤が不安定になるのは当たり前である。
だが、そもそも時間をかけて生じる親密さはその人の人生には最初から存在しないのだからそれを「かわいそうだ」などと思う必要はないのかもしれない。
家族のように親密であるべきとされる空間で「同じようにものをみることができない」し「時間をかけても親密さが生まれない」というのは意外と苦しいものだし、閉鎖された空間の場合には深刻な問題が引き起こされる可能性もある。特に子供が取り引きをする人のいる家庭で育つと、他にリファレンスがないのだから「自分のせいで家族がおかしくなったのでは」と思うこともあるだろう。また、家族関係を取り引きで片付けると周囲から「冷たい人」と思われるリスクもある。
しかし、だからといって被害者がいつまでも被害者のままでいてよいはずはない。家庭内暴力を含めた取引関係を持ち込もうとする人も悪意があってやっているわけではないかもしれない。しかし、それが深刻な問題を引き起こしかねないのであればそれを受け入れて適切な人間関係を再構築する必要があるのではないだろうか。