暴力のない「平和」な学校:真の恐怖とは? を改めて読み直した。短い文章なので全部読んでもらったほうがよさそうなのだが、論旨は次の通り。
先生が怒っても最終的に体罰がないことがわかっているので真剣に捉えない子供がいる。 怒られるのも嫌なので隠すがバレても反省しない。これがエスカレートして行き、全てではないが性的な嫌がらせや犯罪といえるものに行き着くこともある。 彼らにひどいことをされた人は先生と社会に不信感を持つようになる。 良かれと思って抑止力をなくした結果、学校はもっと耐えがたい場所になった。
それに対する感想も読んだ。書いたのは先生だそうだ。懲戒がないのは懲戒の実行が面倒だからなのだそうだ。現在の学校システムは普通の子供が損をする仕組みになっていると指摘する。
今回はタイトルを「安倍政権が蒔いた種……」にした。しかし、実際にはこのような風潮があるから安倍政権が生まれたのか、安倍政権がこうだから学校現場が荒れたのかということはわからない。安倍政権が学校システムを悪くしたのは学校への支出を減らし(あるいは不足を黙認している)からなのだが、先生と生徒が書いたものをみると問題点をあえて言い出す人はいないようだ。明らかな嘘をついていても認めないのだから潜在的な問題点を認めるはずはない。従ってこの問題はさらに悪化するものと思われる。このため安倍政権が蒔いた種は今後政治の規範として残り続けるのではないかと思う。さらに無責任教育が蔓延する中で道徳教育にまで手を出してしまったのだから混乱はますます広がることになるだろう。すでに先生の思い込みを正解とみなしそれ以外の意見を排除する道徳教育が行われているという指摘もみられるようになった。
原因や対策をあれこれ考えた。原因はなんとなくわかったが、対策を日本語で書くのは難しそうである。
対策は先生に権限を与えて学校を立て直すか、生徒に自主性をもたせて自律的に問題を解決することなのだろうが、日本語にはこの類の「民主主義用語」が著しく欠けている。今回「権限」「説明」「責任」「義務」「法的責任」といった言葉が出てくるのだが、裏付けがあまりにも貧弱であり一つ一つ個別にみてゆくとかなり時間がかかりそうである。
日本が国際社会において「民主主義社会の一角」とみなされつづけるためには自主的なコミュニティの運用ができて当たり前の社会にならなければならない。
抑止力がないとコミュニティが健全に保たれないという概念を国際社会に当てはめると抑止力としての軍事力や核の脅しがなければ世界の平和は保てないということになる。日本は平和憲法を持っていると言っておきながら、実際には「押し付けられた平和を嫌々守っている国」ということになってしまえば国際社会からは「反省なき国家」だとみなされることになるだろう。70年も平和憲法を抱えていたのに反省していないのだから、日本は常に監視しておかければ何をしでかすかわからない国ということになってしまうだろう。中国や韓国が責任あるアジアの大国になれば日本は用済みである。
さて前置きが長くなった。まず取り掛かりとして「なぜ学校が生徒を懲戒しなくなったのか」を考える。今回引用した先生の感想文を読むと懲戒を実行するといろいろと面倒だからだそうだ。ではなぜ面倒なのか。
高度経済成長期の学校は「先生には従うべきだ」という意識で運営されていた。これは高度経済成長期の子供達の親が今よりも権威主義的な時代を生きてきた戦中世代だからである。なんとなく先生には従うべきだという規範意識が残っていたのだろう。当時の学校には理不尽で厳しい校則があった。例えば地元の福岡県には中学生になったら丸坊主にするという校則を持った中学校があった。
ところがこうした理不尽さは徐々になくなってゆく。それは民主主義意識が進展していったからだ。この民主主義というのは保守派に言わせれば「権利ばかり主張し義務を果たさない」悪い制度である。しかし実際には見返りばかりを主張するが責任を果たさないと言い換えた方が良い。そしてこの責任という言葉が日本では極めて曖昧に使われている。
しかし、学校を健全に保つためにはなんらかの権威は必要である。天賦の権威はなくなったのだから、誰かが契約をし直して権威付けをやり直す必要がある。だが、日本はこれをしてこなかった。
一つ目の選択肢は学校というコミュニティを運営する責任は学生にあるのだから学生に任せて規範的な運営を行うべきだというものである。これが民主主義型の解決策である。学生をエンパワーメントして権威を与えるということになる。
もう一つの選択肢は生徒にはまだ判断力がないのだから先生に権限を移譲するというやり方がある。つまり先生の権威を認める「契約」を交わせば良いということになるだろう。
ここで、責任とか権限という言葉が出てきた。権限は英語でいうとオーソリティで権威とも訳される。権威というと日本語では「王様の権威」というように天賦である印象が強い。ところが英語のオーソリティはオーサーが語源になっている。なぜ作者が権威になるのか、そして合意を得ることを「オーソライズする」というのか、日本語で生活していると答えられないのではないかと思う。実はこの概念は全てつながっている。そして、英語のオーソリティには天賦のという意味はない。だから王様の権威という言い方は実は間違っている。
先生の感想に戻ると「権限も委託されていないし、それどころかどんな権限があるのかすら明確ではない」人たちが集まってもソリューションを提示することができない。だから次第に面倒になり野放しになってしまう。さらに予算が少なくなった上に消費者化した保護者から過剰な要求を突きつけられると、先生は「面倒に関わっていては自分に課せられた課題が果たせず、悪い学校に飛ばされてしまう」という意識を持つようになる。つまり、先生には権限が与えられていないどころか過剰な要求ばかりが課せられており、これが見て見ぬ振りを生んでいると言える。
もう一つの問題は生徒に話し合わせて解決策を導き出すというやり方なのだが、これは時間と手間がかかる。この解決策の一番の問題点は自治を行う学生に自由度がないということがあるのではないだろうか。例えば「私はこのように荒れ果てた学級に参加するのが嫌なので授業の時だけ来ます」と決めたとしても、それが認められる可能性はない。実行するためには予算も必要になるだろう。つまり、生徒は管理責任だけを押し付けられて権限が与えられないということになる。これも実は生徒が責任を果たすために十分な権限がないということを意味している。英語だとエンパワーされていないので責任を果たさないということになる。これも実は権限移譲の問題なのである。
問題はこればかりではない。問題行動が起こす生徒がいると保護者たちはこれを「学校の破綻」と捉えるようだ。これまで数回で見てきたように日本人は「普通は問題のない円満な状態だ」と考える。先生が書いた方の文章には、先生に必要なサポートが与えられていないという一節がある。このサポートが何を示すのかは不明であり、ここに問題の一貫があるといえるだろう。さらに次のような一節があり、その深刻さは想像以上だ。
教員も保護者も「見たいものしか見ない」し「聞きたいものしか聞かない」ものなのでした。「学級経営はうまくいっていませんが、最大限努力します」と言おうものなら、保護者は「わが子のクラスがそんな状態になっているなんて」と卒倒しそうになり、逆上して烈火のごとく怒りをあらわにします。
つまり、普通の学校はうまくいっているはずなのに、自分の子供が通っている学級だけが問題を抱えているということで「損をしている」ように思えてしまうのかもしれない。そもそも、解決策がない上に問題そのものが認知されない。するとますます問題が温存される。すると普通の学生は「誰かが上から力で押さえつけない限り人々は自制的に行動しないはずである」と考えるようになるのだろう。
こうした人たちは次世代の有権者や消費者になるのだが、関わりを最小化して自分たちが得られる見返りばかりを主張するようになるはずである。また、監視や罰則がない政治家や官僚が嘘をついても「世の中はこんなものだろう」と思うようになるはずだ。
実際にTwitter上ではこうした議論が多く見られる。ということは、学校の見て見ぬ振りはもっと前から横行していたことになる。話し合うための共通の素地がないというのがいかに恐ろしいことなのかがわかるが、これについては次回以降考えたい。
“安倍政権を倒してもバラまかれた種は消えないだろうという話” への1件の返信