野田市で小学校4年生の子供が殺された。手にかけたのは父親だそうで、世も末という感じがする。
この事件を巡っていろいろな「議論」が起こっているのだが、認知不協和をなだめるのが目的になっていて、子供の保護には役に立っていない。Twitterでは各所から「お金が足りない」という悲鳴が聞こえてくる。児童相談所も人員不足らしいし、弁護士も互助的な仕組みでセイフティネットをまかなっているそうだ。みんな一生件目にやっているのだろうが、この件で子供に最初に教えるべきなのは大人は絶対に信じてはダメということだと思った。
経緯はWebRonzaで途中まで読むことができる。子供が必死に助けを求めたのに、大人が自己保身のために親に全て話してしまったという事件である。中心になって子供の保護をするコーディネータのような人がいないという問題がある。法律が組織に紐付いているので、やることがどうしても縦割りになるうえに大人は組織の保全しか考えない。朝日新聞によると小学校に至っては問題が大きくなるのを恐れて父親に校長名の念書まで出したそうだ。
検証作業も始まっているがこれが事件の再発防止につながることは絶対にありえない。記事を集めて読めば、この事件を防ぐためには関係者が集まって「もし〜が起きたら」という未来を予想して対策をとることができる組織を改めて作り直す必要があることがわかる。だが、実際に起こっているのは「過去に起きて確定したことの是非を判断して担当者を処罰する」行為だ。正解蓄積型の日本社会は個人に権限を与えて可能性に対処する組織は絶対に作れないのだ。
このように、認知的不協和を癒すためのジャーナリズムと、他罰的な後評価と、組織保全と自身の安全しか眼中にない大人しかいない状態で、組織的な「弱者保護」が起こるなど信用できない。
そんな中で弱者を守ってくれるのは人々の他罰意識だけである。大声て指差して「この人を罰せよ」ということだけが世間を動かすのだ。世の中には他人を罰したい人が溢れていて、中にはお金を払ってまでそういう読み物を読みたがる人もいる。
最近では広河隆一というフォトジャーナリストのセクハラについての読み物(文春オンライン)が良く流れてくる。このリンクも有料記事につながっているのだが、金儲けでないと世の中は良くならない。内心のない国では善意や社会正義は自己保身に走る人たちを飾り立てるファッション以上の意味はないからだ。。
しかし弱者の側も負けてはいない。彼らにも内心はないので結果的に自分たちの他罰感情が満たせるならなんでもやってしまう。こうした中でSNSや商業史を使った「一発逆転」を狙うことが多くなっている。実際に組織に守られており外面の良い人ほどこの一発逆転の見世物が面白いことになる。
最近、これで明石市長が辞職に追い込まれた。ハフィントンポストによると会見はAbemaニュースが独占したそうだ。これも2017年の出来事なので「最も効果的な選挙前」の時期を虎視眈々と狙っていたのだろう。いつ出すかも作戦の重要な一部ということで、悪意を感じる。だが、悪意意外に問題が解決する見込みがなかったということを考え合わせると、この悪意を一方的に避難するわけにもいかないなと思えてくるのだ。
町田総合高校では、教師を挑発し体罰を誘導してそれをビデオに流すということが行われた。確かに酷い行為ではあるが、普通のやり方で抗議をしても決して表沙汰何なることはなく、高校生らしくない格好をしているお前らに落ち度があるという話で終わっていただろう。女性の性犯罪ですら「自己責任論」が飛び出す世の中だ。だが、内心を持たずこうした世界に慣れた高校生たちは意図も簡単に「こんなことまではしないだろう」という線を飛び越えてみせた。だが、組織がお互いをかばい合うなら、こうした対抗策しかありえない。しかし、その結果生じるのは秩序の破壊だ。
だが、欲と他罰性で相手を巻き込んで騒ぎを起こしたら結果的に社会正義が実現するということが普通になったら、誰も社会正義などというものは信じなくなるだろうし、法律なんか守らなくなる。その結果生まれるのは、いつ誰に密告されるかわからないという東ドイツ顔負けの世界である。しかもそれが政権や独裁者と言った主体なしに自発的に起きている。シュタージはいないが「善良な市民」がその役割を担うのだ。それは、いわば社会正義という見えないビッグブラザーが実現する監視型恐怖世界なのかもしれない。