夫婦別姓が許されないのは違憲か合憲かという裁判の決着が出た。違憲ではないというのが結論だったのだが、これに対するリアクションが興味深かった。
別姓推進派の中には「姓をなくすことはアイデンティティを失う事なのだ」と涙ながらに訴える人がいた。姓の問題というよりも、女性であるというだけで自身を否定された強烈な経験が投影されているのだと思う。
一方で別姓反対派は、別姓推進は共産主義者の陰謀だと思っているようだ。共産主義者は家族制度を解体を画策しているが、それは最終目標である国家の解体への第一歩だということだ。「なんと大げさな」と思うが、右派の中ではかなり浸透した見方らしい。悪の秘密結社が世界征服のために幼稚園バスを襲うのに似ている。
右派の見方で特に危険だと思ったのが、家族制度の神聖視だ。家族制度さえ再構築できれば、社会問題が一挙に解決するだろうと思っているフシさえある。ところが実際には家族の絆は密室を作り出す事がある。こんなニュースを思い出した。
年老いた父親が娘を殺した。娘には病的な暴力癖があった。家族にたびたび暴力を振るうので、一人暮らしをさせたが、問題は解決しなかった。次に、精神病院にかかったが「統合失調症」「解離性人格障害」などと病名は定まらない。福祉にも相談したが無駄だった。最終的に父親が首を絞めて「問題を解決」せざるを得なかったのだ。
確かに特殊な例だ。しかしながら、家族を介護していて共倒れになるという話は珍しくない。家族の問題は家族で解決しようという意識が強く、問題を表沙汰にするのは恥だという意識が強いかもしれない。その結果、日本の殺人事件の半数は家族間の殺し合いになっている。「嘘だ」と思うなら、統計を調べてみるとよいだろう。
現状でもかなり悲惨な状況にあるのに、「家族の問題だから社会は関与しない」と突き放してしまうとどういう事態に陥るのか想像するのは難しくない。だから、姓さえ統一すれば自ずから一体感が生まれ、問題が解決するというのは幻想に過ぎない。憲法を改正して家族保護条項を作ろうという話もあるが、同一線上にある議論だ。
こうした幻想が温存されるのは、議論の当事者たちが難しい家族の問題に直面してこなかったからだろう。思い込みだけで議論しているのだ。
しかし、危機感を感じる背景にはなにかがあるはずだ。それに対峙しないかぎり不安は消えないだろう。
もともと、日本の家族は「絆の共同体」などではなく、事業体としての色彩が強かった。例えば、子供のない家に養子に出すことも当たり前で、兄弟なのに姓が違うということも珍しくなかった。家は財産管理の単位で、それを「家督」と呼んだ。
こうした事業体としての家族を肩代わりしたのが企業だった。こうして、夫が稼いて妻が支えるという形式が作られた。一方で、家が事業の主体ではなくなったために、子供は家から切り離された。さらに終身雇用制度が崩壊したために、かろうじて「家のようなもの」を支えていた経済基盤が崩壊しつつある。地方では中小の商店、工場、農家などが「事業体」としての家を作っていたが、崩壊しつつある。大規模店舗ができたために個人商店が潰れたり、農業に魅力がなくなり子供に継がせることができないなど、事情は様々だ。
家が崩壊しつつあるのは、共産主義者の陰謀ではない。崩壊しつつあるのは日本型資本主義だ。姓を同一にしようが、別々にしようが家の崩壊には何の関係もない。また、戦前の家父長制度を復活させたからといって、かつての終身雇用型の社会が戻ってくる訳ではないのだ。