外国人参政権を早急に検討しなければならないわけ

今日は地方の外国人の参政権付与に賛成ですか反対ですかと質問してみたい。多分、二通りの典型的な答えが戻ってくるはずである。




一つ目は外国人の参政権付与に賛成という意見だ。これはすべての人には基本的人権(自然人権・天賦人権)が認められるべきであり、当然外国人にもそれが当てはまるべきだという「リベラル」な意見である。

もう一つは外国人の参政権付与に反対という立場である。参政権は国から与えられる特権であり、その特権を外国人にも分けてやるのは反対という立場になる。

あなたはこの二つの意見のうちの「どちらに」賛成だろうか。それともこれとは違う意見を持っているだろうか。

さて、今回は「内心」について考えている。あまり注意しないで扱ってきた概念だが、「情報処理」の問題が含まれていることがわかってきた。つまり、今回の質問も結果が同じであっても理由付けが違っている可能性があるということになる。

外国人参政権に反対する意見は、そもそも人権を「国が与える特権」と理解している。さらに「特権は誰かに与えると自分の持ち分が減ってしまうに違いない」という見込みがある。だから彼らは自分たちだけの特権を人に分け与えることに抵抗し、リベラルな人たちはこの一連の思考のセットを攻撃する。だが、ネトウヨの人たちは内心を意識しないので「これしか考えようがなく、正解は一つしかない」と当惑し反発するのだ。

しかしながら、本当に参政権のような人権は特権なのだろうかという疑問がある。意思決定に参加するということは、その結果に縛られるということをも意味している。つまり、権利と義務が一体になった概念であり、参政権はそもそも特権だけではないはずだ。投票するということは「あなたたちが決めた約束に私は従いますよ」と宣言していることになるし、投票権があるのに投票しないということは、何を言われても従いますからどうぞご自由にと言っているのと同じことなのである。

参政権を特権と捉える人はこの権利と義務の関係も間違えて捉えている。よく知られているように、税金を収めたからその恩恵として特権である選挙権が与えられると考える人が多い。だが、これは権利と義務を誤解して捉えているに過ぎない。ここでいう権利と義務は一体であり交換できる概念ではないからだ。

我々が外国人を意思決定から排除するということは、逆に政治に従わなくてもすむ人たちを大量に生み出すということだ。例えば大陸の中国人は自分たちで政治リーダーを決めたことがないので、政治リーダーが決めたことに従う道義的責任はない。彼らがルールに従うのは結果的に豊かさがもたらされているか、怖いからかのどちらかだろう。安倍政権が外国人労働者への依存を強めているのだから、我々は次の数十年の間こうした人たちと一緒に住むことになる。確かに「非正規住民」とは嫌な言葉だが、権利で区別しても居住地域を分けることはできない。

我々は日々こうした外国人と接することになるのだから、日本にいる外国人にルールを守らせるためには政治的な啓蒙をした上でルール作りに参加させたほうがいい。持ち家しか建てられない地域(確かに賃貸が禁止されている地区はある)以外の人たちはかなり近い将来にこれを実感することになるだろう。

数が少なければゲスト住民たちは黙っているだろうが、法務省によれば平成29年度には256万人になったそうである、この中の30%近くは民主主義の経験すらない中国人なのだそうだ。彼らに「街のルールや法律は自分たちで決めたものなのだから守らなければならない」と説得して見せたところで何の意味もない。民主主義の経験のない彼らには自分たちが決めた法律を守るという知識はないし、日本の法律を守る道義的責任もない。さらに見つかれば中国に逃げ帰ればいいだけである。それで破壊されるのは企業ではない。我々の暮らしだ。

日本はすでにこれで失敗している。経営に参加する権利を特権と捉え非正規雇用を増やして正規雇用の既得権を守ろうとした。その一方でマネジメントスタイルは変えなかった。日本の雇用は終身雇用で経営者と一体であるがゆえに従業員の忠誠心が高いということに依存する構造になっていた。従業員が企業の成長のために時に自らを犠牲にすることがあったのはこの一体化のおかげだった。これを破壊し、役割分担を明確にした経営スタイルを取り入れなかったことで、日本の企業の競争力は大幅に低減することになり、正規非正規が分断されることで職場環境はかなり窮屈になった。

今にして思えば、日本の企業は非正規雇用にきちんとした経営参加のインセンティブを与えるか逆に従業員を信頼せずに経営リソースだけで成長できる企業文化を作るべきだった。そもそも非正規職員などと呼ばせるべきではなかった。もし今対策しなければ、同じことが今度は地域社会で起こるだろう。非正規住民という嫌悪感を伴う言葉を使っているのはこのためである。

日本の治安の良さは為政者に心理的に近い(あまり定義ははっきりしないが「民度」が高いなどと言われる)住民によって支えられているのだが、これからはそうも言っていられなくなるだろう。参政権のない外国人に日本のルールを守るインセンティブはない。もちろん、参政権を付与しただけで地域社会に参加するようになるだろうというのは楽観的にすぎる見方だが、それでも何もしないよりよっぽどましであろう。

ネトウヨの人たちがこの問題を過小評価しているのは、在日韓国人・朝鮮人を扱った経験によるのかもしれない。在日韓国人・朝鮮人は戦前に日本に流れてきたか、戦後の混乱期に難民として日本に入ってきた人たちだ。当然数は増えない上に帰化してしまえば日本人になってしまう。韓国から来た中長期の滞在者を加えても50万人に届かない社会の少数者だった。彼らは固まって自分たちの権利を主張するようなこともなかったし、数が増え続けることもなかった。さらに本質的には日本社会から(国家ではなく)承認されることを望んでいたので社会に対して無責任な態度をとる人は多くなかった。だから彼らを少数者として差別していれば「問題は解決」していたのだ。

ところが中国は経済が成長し日本にも多くの中国人が入ってきている。その数はすでに朝鮮・韓国系の人たちを超えているがもともと母数が多いのでこれは理解できる話である。このブログを始めた当時、日本が高度移民を受け入れず成長を諦めれば中国やインドと競争することになるのだから人件費は中国並みになるだろうなどと冗談めかして書いていたのだが、まさか本当に中国人たちを連れてくるとまでは思わなかった。予測は正しくても想像をはるかに超えることが起こる・

大陸からきた人たちは民主主義の経験はないのだが、数としてはまとまっているので、いつ権利を主張する運動を始めてもおかしくはない。さらに、定住や社会参加のインセンティブもなく「単に稼げればいい」なら、なんでもやるだろう。もちろん人権を無視して彼らを全て収容所に入れた上で工場労働だけをさせるということは技術的には可能だろうが、それが国際的に許容されることはないはずだ。

ネトウヨにはこの問題は扱えそうもないが、逆に「市民として温かく迎えてあげればきっとわかってくれる」というわけにも行かないのではないだろうか。日本人とは考え方が大きく違う。自分たちの権利を筋道を立てて主張する上に、出身地域ごとに集団を作って自己主張をするからである。彼らは我々と違った思考をすると主張すれば「自称人権派」は人種差別だと騒ぐはずである。このブログ記事も外国人差別を助長すると批判されるかもしれない。

安倍政権はこの数年で多分我々が思うより多くの社会的変化を作り上げた。もう安倍政権批判をしても仕方がない。我々は新しく直面するであろう問題に対処しなければならない時期に来ている。そのためには自動化された議論は無意味だし有害だ。我々は踏み出してしまった未来に対して有効な対策を考える必要がある。

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