地毛証明書は人権侵害なのか

短く一つ。

地毛証明書は人権侵害だという指摘があるそうだが、そうは思わない。学校には様々な教育上の自由があるはずで、生徒はそれを選ぶ自由がある。「黒髪で揃えたい」というのは保護者のニーズに基づいており、必ずしも非民主的とは言い切れないからだ。

では、全く問題もないのか。そうも思わない。が、これは絶対正義というよりは自分の育った環境による感想文であり全く別の解釈をする人もいるかもしれない。あえて書くのは「なんとなく違和感があるが、間違っているとも言い切れない」という感想を持つ人が多いのではないかと思ったからだ。

髪型を短く揃える校則の小中学校に通っていた。市内の中学校は坊主頭が校則で髪型の選択ができなかった。九州の地方都市なのでこういう軍隊的な雰囲気依然がまかり通っていたのだ。坊主にすれば荒れる心配はない(そもそも地毛の色すら心配しなくてもよい)ので管理が楽だったのだろう。一方私立の学校で長髪が禁止なのは地方都市の「イイトコ」の子供のスタンダードな髪型が「耳にかからないくらいの長さ」だったからなのだろう。ちなみに挨拶は「ごきげんよう」だった。

が、地毛証明書はなかった。2つの理由によると思う。1つはお金があったので先生が生徒を一人ひとり把握できたことによると思う。つまり証明書を出して紙で管理するというような発想はそもそもなかった。2つ目は良家の子女という自己認識がありそこからはみ出ようという自我がなかったことによる。特に反抗してみせる必要がなかったのである。校風(確かに「ごきげんよう」にはちょっとした違和感もある)に反抗してみても良いが、市立に通えばいい話だ。すると、自動的に丸刈りになる。

教育評論家の尾木直樹さんによると、都立高校が地毛証明書を求める背景には生徒が集まらないという切実な事情があるのだという。そこで「育ちが良い」ことを証明しようとして黒髪にこだわるのだろう。しかし、それほど余裕もないので一人ひとりを把握することができない。そこで「紙で管理」というような考え方が生じるのではないかと思う。これがこのニュースの違和感の正体ではないかと思った。つまり、公教育が行き詰まりつつあるのだ。

東京の高校というと「私服で通える自由な」というイメージがある。つまり都市ならではの多様性が扱えていたのだ。しかし、これは高度経済成長に支えられた気風であり、東京が貧しくなっていくとこうした多様性を支える何かが欠落して行くらしい。

つまりこれは東京が相対的に貧しくなり没落しているということを示しているだけで、人権とはあまり関係がないのではないかと思える。

 

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