今回は「問題の社会化」というトピックでいじめ問題について考える。町田市のある小学校でSNSを使ったいじめが確認された。いじめられた生徒は別の生徒の名前を名指しした遺書を残して自殺したそうだ。
このニュースはかなり都合の悪いいくつかの事象を含んでいる。この学校は先進的に一人一台のタブレット端末を配布するモデル校だったのだが、学校は端末をきちんと管理できていなかった。
いじめの舞台になったのはGoogleチャットだがNTTがGoogleと組んで町田市の公立小中学校に導入を進めているという記事が2017年に出ていた。つまり、モデル事業が失敗して自殺事件が起きたというケースなのだ。「一部の企業が金儲けのためにタブレットを小学校に売りつけた」のだから即刻中止すべきだと言いたくなる。
乱暴なソリューションを避け、小学生にも先端的なIT技術に触れてもらいたいと考えた場合この問題を解決するためには三つのアプローチが必要であるということがわかる。まず今回の事件を共有し関係者が話し合う必要があるだろう。これを問題の社会化と定義しよう。解決策を出すのは社会化が済んでからである。
- 利用者に対して「いじめはいけないのだ」ということを教える。今後彼らは実社会でユーザーになる。
- いじめのターゲットに対して正しい炎上対策を教える。例えばスルーする力だったり適切なところに助けを求めると言った対策である。
- 教師が利用を管理できるような援助ツールを提供し、モデレーターとしてのスキルを与える研修を行う。また基本的なITリテラシを学んでもらう。
特に3番目には重大な問題があった。企業は教師に十分な支援を行わず単に技術的なプロジェクトだと思っていたのだろう。学校は当初チャットの履歴が見当たらないとして問題をなかったことにしようとしたようである。さらに出席番号と全員共通のパスワードが使われており、他人のIDで入って個別のやりとりを見たり他人になりすまして悪口を言える環境だったことがわかっているそうだ。やる気になれば他の生徒の出席番号でチャットルームに入っていじめができる環境だったのだ。
だが我々の社会は「こうした問題」に対処できなくなっている。そもそも問題意識の共有が起こらない。問題の社会化が起こらないとどうなるか。代わりにそれぞれの立場から誰か別の人を叩くという「問題の個人化」が起こる。つまり不利益を誰かに押し付けようということになるわけである。
実際に対処法を選択肢を提示してQuoraで質問してみた。そもそもこの問題は全く知られておらず興味を持たれていない。さらに記事を調べてみようという人もいない。複数の人が「どちらかを選ぶというのは乱暴で論外である」とだけ回答した。考えたくないので問いを否定したわけだ。社会問題について聞くとよく見られる典型的な解答例である。つまりまず問題を提起した人が叩かれるという個人化が起こる。
さらに厄介なのは「解決策を知っている人」である。どのような事件かがわからないと回答のしようがないとは思うのだが「いじめた奴を見つけて厳罰化すべきである」という意見があった。つまりいじめた人に問題を貴族させようとしている。さらに「法律が知られていない」という人もいた。いじめられている当事者が法律だけ知らされても意味がない。先生がきちんと対処してくれるかどうかがよくわからないからだ。最後に三歳まで母親の元で育たない子供は荒れるという偏見を縷々書き連ねて来た人もいた。それぞれ誰かに問題を押し付けようとしている。
これが問題の個人化である。ITを導入した企業が悪い、使いこなせなかった学校が悪い、いじめた子と管理していなかった親が悪い、いやいじめられた子に問題があったなどなどの「議論」が起こり問題はうやむやになる。
一億総他人事社会なので教育委員会は「指導する」という立場を崩しておらず当事者意識は見られない。おそらく取材もされていない先生は勝手にモデル校に指定され仕事が増えたとは感じているだろうが当事者意識は持っていないのではないかと思う。個人の善意で動いても周りが動いてくれなければ徒労の終わってしまう。だったら黙っていようということになるのではないか。下を向いて嵐が過ぎ去るのを待つしかない。下手に動けば問題を押し付けられるからである。そもそも当初はいじめをみとめていなかった。いじめの事実がわかればモデル校から外されるかもしれないという恐怖心もあったのかもしれない。
残酷な話だがある意味自殺した児童の洞察は正しかった。大人は助けてくれない。単に戸惑うかいじめられている人にも問題があるとしてなかったことにしようとするだけだろう。巨額のお金が動くITプロジェクトだから企業にとっても児童の告発は「迷惑なもの」として扱われたはずである。
「我々の社会は他人の問題に無頓着になった」と考えていたところ全く別の観点からこれについて分析している人がいた。問題ではなくリスクについて考えている。
Business Insiderが「こんなに理念が違う河野氏と石破氏はうまくいくのか?総裁選候補を「価値とリスク」で分類」という記事をまとめている。保守 x リベラルとか右翼 x 左翼という政治的ラベリングが恣意的に使われるようになったため政治学者は新しい分類方法を模索している。中島岳志東京工業大学教授はリスクの社会化 x リスクの個人化という指標とリベラル x パターナルという二つの指標に分けている。
この座標は安倍・麻生路線をリスクの個人化 x パターナルの象限においている。これは規範は押し付けるが責任は取ってくれないという最悪の自己責任社会である。安倍政治の後継者である高市候補はここに置かれている。一方で、河野候補はリスクの個人化 x リベラルにおかれている。さらに岸田候補はリスクの社会化 x リベラルに置かれている。
リスクの個人化というのは「個人が失敗しても社会は面倒見ませよ」という路線のことだ。政治的には小さな政府志向ということになる。河野候補は選択肢は許容するがそれを選択した結果失敗しても国は面倒を見ないという自己責任型の政治家だ。これは菅総理が言っていた「自助社会」と同じである。おそらく従来型の価値観(いわゆる保守)に興味がないのだろう。
中島さんもこの記事をまとめた浜田矩子さんも日本の従来の保守政治は緩やかな共助型つまりリスクの社会化政策なのではないかと考えているようだ。その意味では岸田さんが本流ということになる。だが矢印が書かれていて「自民党の多数派がリクスの個人化」に傾いているので岸田さんは流されてしまうかもしれないと懸念している。
多くの人が「この先日本は没落してゆくであろう」と予想していて椅子取りゲーム型の社会になっている。このためできるだけ他人の面倒を見ずに逃げ切りたい。こうした社会では「リスクの社会化は損」である。自分も一緒に沈む可能性があるからだ。このため成果は他人から横取りしたいがリスクは引き受けないというのが一番の勝ちパターンになっている。こうした社会が定着するとリスクの社会化を目指したものが代理で叩かれる可能性がある。こうしてリスクの個人化傾向がますます強くなる。つまりリスクの個人化は原因であって結果でもある。
現在の保守は「自分たちの価値観を押し付けるが責任は取ってくれない人たち」のことだ。彼らは自分たちの価値を押し付けるために道徳教育を導入しようとしてきた。だがその結果に対して生じた不都合にはおそらく責任は取らないだろう。さらに消費税増税の言い訳として「教育の無償化」も利用した。他人は利用すべきものであって助けてやる存在ではないという認識が現在の保守を支えている。つまり従来型の価値観が変質したものを「昔ながらの価値観である」と誤認しているのが今の保守なのだ。これは保守ではなく保身である。
当然自民党の総裁選挙はそうした空気を敏感に反映する。これまでの安倍・菅体制がそうだったし、おそらく次の体制も社会化力に乏しい体制になるのではないかと思った。
今回亡くなったお子さんのご遺族は「原因の解明と説明」を望んでいるそうだが、我々が報道でそれを知ることはないだろうが、それが何を意味するのかという点は気になった。問題の共有化が行われない社会では犯人探しに終わるのか何の説明もなくうやむやになるのかのおそらくどちらかなのではないだろうか。