山崎雅弘といういつもお昼頃に連続ツイートをする人がいるのだが、太宰府天満宮のウェブサイトについて吠えていた。神社が自国優越主義をけしかけるのは許しがたいという。確かに神社は新興宗教の流れを組む日本会議に乗っ取られているので、まあけしからんといえばけしからんのだが、ウェブサイトをみて唖然とした。
日本人の定義として次のようなものが挙がっている。
- 朝顔を洗う。
- 食事のマナーはきちんとする。
- 挨拶をする。
- お盆に帰省をして先祖崇拝をする。
どれも人間として当たり前のことが書いてある。これを中国人について置き換えても同じになるし、韓国人の先祖崇拝はさらに念が入っていて多分日本人は負けている。だから山崎さんのいうように「自国優越主義」とはとても思えない。
しかし、太宰府天満宮が「日本人」を定義しきれないのはなぜだろうかという疑問は湧く。日本人は長い間、大陸から切り離されてきたために他者と比較をする必要がなかったのだろうという結論に達する。つまり、他者と接することがなかったので自分を規定する必要もなかったのだ。
自己としての規定ができないということはまとまれないということなのだが、日本人には外国の脅威がなかったので明治維新まではそもそも民族を意識せず、明治維新以降は「西洋でもっとも成功した東洋人」という立ち位置だったので、それほど自己規定に苦労しなかった。が、中国人や韓国人が出てくることによって、その自己規定ができなくなってしまった。つまり「韓国人や中国人じゃない東洋人」になってしまったのだ。とはいえ、中国人や韓国人のことも実はよく知らないので「日本人とは何か」という問いには答えられない。
当たり前のことだが、民族というのは他者をおいてしか規定できないものなのだ。