全体主義・教育・戦争に関する漫然とした雑感

今日は、漫然とした雑感を書く。一応つながりはあるが、それを最初から説明するのは難しい。

アーレントについての番組を見て、全体主義が生まれる背景には国家間の競争があるということを学んだ。その当時は帝国がそれぞれの経済圏を自前で作る必要があった。しかし、その経済圏はお互いに衝突し、最終的に戦争がおきた。もはやお互いにぶつかることなしに経済圏を拡張することができなかった。

第二次世界大戦後はその反省から世界経済圏が作られた。このため各国は自前で経済圏を防衛する必要がなくなったはずだった。冷戦構造がなくなると、それはいよいよ現実のものとなるはずだった。

もし国家間が競争しないとしたら、国民はまとまる必要がない。したがって内外に敵を作る必要はなくなる。ということは全体主義も生まれずパリアのような存在も必要がないということになるだろう。

例えばアメリカには州間競争があり、多様性が重要視される良海岸と内陸部の対立がある。ここで競争に取り残された内陸部の白人が白人至上主義意識を持つことは理解ができる。両海岸部では、人種差別思想というのは、知的弱者のスティグマであり、それが内陸部では却って反発意識を生むだろう。トランプ大統領が嫌われるのは、こうした知的な劣等さの象徴のような人がアメリカを代表しているからだ。一方でトランプ大統領が成立し得るのは、内陸部が競争に負けてはいても、量海岸部から豊富な資金が流れ込むからである。つまり人種差別的な白人は実は両海岸部の移民に食べさせてもらっているという側面があるのだ。

アメリカでポリティカルコレクトネスが叫ばれるのは、少なくとも都市部では人種差別者だと見なされると社会的に抹殺されかねないからだ。IT産業のエグゼクティブの中にはインド系や中国系が多く、エンターティンメント産業で働くとユダヤ人(主にお金を持っている)やゲイの人たちと働くことになる。地方部では、もはや白人の間に希望がなく、こうした人たちを恐る必要がない。

日本には二極化がなく、したがって強烈な差別意識が生まれる必然性はない。しかし同時にアメリカの内陸部のように希望のない状態になっており、これが野放途に差別発言を繰り返しても特に社会的に罰せられないという状態になっている。

一方、競争の消滅には別の側面がある。国家間から競争がなくなると政治的支配者は国民に投資をする必要がなくなる。

民主主義は国民のコミットメントを勝ち取ることにより強い国力を生み出す。それで国家間競争に優位になる。絶対王権より議会王権が優れており、議会王権よりも民主主義の方が優れていた。ところが、競争からドロップアウトしてしまうと教育などの投資をする必要がなくなる。

安倍首相は教育についての壊滅的な考え方で知られる。国民にはリベラルアーツは必要なく、単に職業訓練をするべきだと考えているようだ。これは、自分で考える人間は一握りでよく、あとの人たちは自分でものごとを考えずに、エリートにしたがっていれば良いという思想だ。

こうした思想は未開な段階の社会主義圏によく見られる。例えば毛沢東は都市の知識階層を「下放」する政策を取った。山崎豊子の「大地の子」では日本人である(つまり潜在的には裏切り者の子供である)陸一心が地方の「労働改造所」に送られるというエピソードがある。ポル・ポトも知識階層を虐待した。さらに、北朝鮮も似たような状況にある。

こうした社会はどれも、世界経済から切り離されて、自前の経済圏を作ろうとしている。北朝鮮の場合は国民を飢えさせても核爆弾さえ持てば強国の仲間入りができるわけだから、特に国民に投資する必要はない。さらに兵士を食べさせる必要もない。指導者が核爆弾さえ抱えていれば世界の強国から尊敬してもらえるという世界だ。中国にも同じ段階があったが、最終的には経済ネットワークの重要性を認識して方向転換を図った。

ここでわからないのは、安倍首相がこうした思想を自前で考え出したのか、それとも毛沢東やポルポトなどに影響を受けたのかという点である。もし、前者なら権力者というのはこうした思想を持つ可能性があるということになり、これを制度的に防がなければならない。なぜならばいったん世界に向けて開かれた国が引きこもった例はないからだ。開かれながらも国民から考える力を奪うというのは、世界経済圏の中で没落してゆくという意味にしかならない。

いずれにせよ、国家と競争ということを考えてゆくと、色々疑問が湧く。さらに安倍首相やネトウヨの考え方を観察してゆくと、それぞれ都合の良い理論をつぎはぎしてミノムシのような思想体系を形作っており、一貫性がないということがわかる。安倍首相は国力を増すために国民をどう教育してゆくのかという基本理念がなく、さらに北朝鮮を挑発して戦争になった時にどれくらい戦費をまかない戦線を維持できるのかということについてもアイディアを持っていない。さらに安倍首相は議会の承認なしに勝手に徴税して予算を獲得する権限はない。しかし、これらのことは安倍首相には「どうでもいい」ことなのだろう。

しかしながら、戦争がない社会では「国力をどう維持してゆくか」ということを考える必要がないのだから、こうした考え方が蔓延してもしかがたないようにも思える。北朝鮮が核開発一択に陥ったように、安倍首相はアメリカ追随一択になっているのかもしれない。

実は戦争と教育というのは相互につながっている。日本は70年以上もアメリカとコンパクトのような契約を結んでいるので、国民の教育にどれくらい投資すべきなのかという国家観が持てなくなっているのかもしれない。一方、ドイツは同じような集団的自衛の枠組みに組み込まれているが、常時国家間で比較され続けており「正気を保っている」のかもしれない。

つまり「次世代に投資すべきだ」と考える人は、同時に戦争や経済競争について考えなければならないのではないかと思う。

Google Recommendation Advertisement



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です