起業家を支援するグロービスの堀さんが個人の自立心が日本を強くすると言っている。これについて考えてみたい。
まず「個人の自立心が大切だ」というステートメントだが、これは正当化できるように思える。経済が流動化しつつあり、自分の核をもっていないと状況に流されてしまう。情報が氾濫しているのもその一つのあらわれだ。「私の問題意識」を核に持っていないと、情報に押し流されることになるだろう。問題はそれをどうやって実現してゆくかということだ。
先日チリで地震が起きた。地震そのものの被害よりも二次災害の方が悲惨だったようだ。一つは地震の後に起こった津波だった。警戒システムが網羅されていなかったことで情報が行き渡らなかったようだ。次の災害は暴動と略奪だ。略奪に参加したのは荒くれ者ばかりではない。普通の市民に見えるひとたちも参加している。支援食料が届かないのだ。略奪は犯罪だが、飢えるヒトが目の前の食料をあさるのを責める気持ちにはなれない。今朝のNHKのニュースでは、最近の急成長の影響で貧富の格差が増大しており、この不満が爆発したのかもしれないという観測を伝えている。
阪神淡路大震災の時、こうした略奪は行なわれなかったといわれている。コミュニティの力が大きかったようだ。国の援助システムもチリよりは格段に整備されていたからかもしれない。
ホフステードの指標で日本とチリを比てみる。チリはラテンアメリカ諸国に一般的な傾向を持っている。集団性とUAI(リスク回避傾向)が高い。集団性が高いのは「日本と同じではないか」と思われるかもしれないが、日本の集団性は東アジアの他の国やラテンアメリカ諸国よりは低い。こうした国から見ると日本は「まだ」個人主義の国ということになる。PDIが高いので「ボスのいうことはなにがなんでも聞かなければならない」という傾向があり、男性化傾向は低い。(多文化世界―違いを学び共存への道を探るを参照のこと)
日本人が個人主義傾向の低い国(例えば中国など)の人たちを見ると「わがままだ」と感じることがある。集団主義が家族を核としているためだ。だからいざというときには地域社会や国家といった共同体的なコミュニティではなく、家族や地域のようなコミュニティに助けを求めるし、家族を防衛するために動くわけだ。日本が疑似家族としての会社や国家に対して忠誠心を感じるのに比べて、こうした国では家族が生き残ることの方が優先順位が高いといえる。同じような集団主義でも日本の集団主義は抽象度が高い。血族は取り替えが利かないのだが、日本人の集団は個人が選択する余地がある。
この特質の違いが防衛システムにもあらわれている。日本人は地域社会が協力しあって安定化をはかることにより震災後の混乱を防衛した。一方、チリは家族のような小さな集団を守るために平常時は反社会的と言われる略奪を行なってでも自己防衛を図っているのである。
さて、堀さんの議論に戻ろう。この議論には2つの面白いミックスが見られる。一つは「個人が自立しなければならない」というステートメントなのだが、注意深く読んでみると「個人の活力が結果的に集団としての日本の強さを生み出す」という別のメッセージが隠れている。堀さんは西洋的なコンテクストで教育された方なのだろうから、個人の活動が結果的に集団の活力を生み出すという考えには違和感を持たないだろう。アダム・スミスも同じようなことを言っている。個人のばらばらの経済活動が国家を強くするみたいなことで、国家が丸抱えで競争する重商主義を捨てて自由主義経済が生まれたわけだ。
しかし、これが日本のコンテクストに取り入れられると、おかしなことが起こる。それは日本人がこのステートメントを「みんなで一緒に自立心を持ちましょう」というように受け取る可能性があるからだ。これは集団主義的な考え方だ。
今朝のNHKニュースで面白い特集をやっていた。私らしさを表現するために15秒のコマーシャルを作りましょうというのだ。広告代理店と大学が共同でカリキュラムを作ったらしい。まず「私のいいところ」を100以上みつけ、そこからメッセージを作り上げてゆく。最終的にこれを発表させていた。簡単に100個見つけられる子もいれば、まったく思いつかない子もいる。先生がやっとの思いで1つのよいところ「7か月目から水泳をやっている」を選んだ子どもを見て「水泳みんなやってるよ。もうちょっと考えてみようよ…」みたいなことを言っていた。
自尊心が生まれるのは、自分の特質について「心からよい」と思えるからだ。怒られながら無理矢理見つけるものではない。この先生にしても「それはすごいねえ、どうしてそんなに続けられるのか教えてよ」くらい言えばよさそうなものだ。そしてそれを機械的に15秒のコマーシャルに落としてゆく。メッセージは瞬間的なものだから「キャラ」が立っていているものがクラスで承認されて終わりになることになるだろう。
自尊心がこうした機械的な作業から生まれるものかね、とも思うが、これが工業主義的な国の自尊心の育て方なのかもしれない。もしかしたら他のヒトが「ガンコ」と思っている特質が、本当のそのひとらしさであり美点なのかもしれない。しかし、先生が「ガンコはいいことじゃないよ」と指導してしまえば、それがそのヒトに刷り込まれることもあるだろう。
ここで起こっているのは、大げさに言えば「個人主義」と「集団主義」の対立だ。自尊心が自立心につながるわけだから、ここで「先生に受けそうなキャラを出しておこう」と考えると、結局自立心が育たないということになってしまう。
さて、ここまで書いて来て、じゃあいったい何が処方箋になるのか?と思われる方もいるかもしれない。
まず第一に、西洋的な社会に触れて「個人主義」の洗礼をうけた人たちがいる。この人たちを邪魔しないようにしなければならない。現実的にはかなり難しい。たとえば、國母選手は早くからプロになり、スノーボードのコミュニティでの交流も活発なようだ。こういうヒトが個人主義の社会で当たり前のようにやっていることを集団主義の社会で行なうと、おおいに叩かれることになる。どうも匿名でならいくら叩いてもいいと思うのは若い人たちの特質ではないらしい。我々の社会がもとから持っている特質が引き継がれているだけのようだ。根強い集団主義的な表現の仕方だ。
次に重要なのは、集団主義的な特質を闇雲に否定しないことだろう。NHKのCMの授業で見たように、社会は見た事がないものを再生することはできないのだ。これは社会には再生産の機能があるからで、故に一度獲得した文化は長い間大きく変わることがない。そもそも「みんなで一緒に変わりましょう」というのは個人主義ではない。また、セルフプロモーションはキャラ作りではない。自分の特質や得意なことを使って世の中に貢献するための作業だ。結局個人主義といってもそれは社会との関わりの中で作られてゆくべきだ。
日本のネット環境は「匿名性が高い」と言われて来た。アメリカでは、まず個人の発言が立ち上がり、それが社会的な影響力を持つようになった歴史がある。しかし、日本では別の歴史をたどりそうだ。まず個人のつぶやきとして始まり、それが匿名化した勢力になる。今はある程度「世論」としてのプレゼンスを持ちつつあり、社会にプレッシャーを与えるところまで来ている。この後どうなるかはわからないのだが、ここから次第に自尊心が育てばよいのではないかと思える。
ただし、これは我々一人ひとりが変わらなくてもいいという主張ではない。経済的な変化が大きくなると、一つの集団がその人の一生の面倒を見ることはできなくなるだろうからだ。しかしそのためには、我々の社会がどんな性質を持っていて、それがどのような機能を果たして来たのかを改めて見つめ直してみる必要がある。それができてはじめて自尊心が生まれる。自分がよいと思っているサービスが世の中に広まれば結果的に多くのイノベーターや起業家を生み出し、日本を成長させる原動力として作用するだろう。