これまで「日本人の政治姿勢」を見てきた。今の所「採集できた」のは次のような類型である。
- 何もできないことがわかっていて受動攻撃性に走る人
- 正義が実行されないとして怒るが、受動攻撃者の餌になってしまう人
- 受動攻撃はしないが怒っている人を見て楽しんでいる観衆
なかなか荒んだ光景ばかりが集まったが、これは問題ばかりを見ているからである。問題だけを見ていると、状況がまずくなる前になんとか手が打てなかったのかとも思うし、日本人が全て愚かなバカに見えてしまう。しかし、その前段階には「問題の芽」があるはずだ。そこで、今問題になりつつある現象を眺めてみたいと思った。それがCOBOLである。
厚生労働省の統計偽装問題で「COBOLプログラム性悪論」が出てきた。COBOLは一般的には古びたコンピュータ言語と見なされており、日本のITが世界にキャッチアップしていない象徴とされることも多い。国会で統計偽装の問題が取り上げられた時「RではなくCOBOLが使われている」と非難していた国会議員もいた。汎用機でバッチ処理を行う話をしているのに、なぜRなのだろう?とは思ったのだが、多分質問者はよくわからないまま又聞きしたことをあたかも自分が発見したかのように話しているのだろうと思った。これを立憲民主党なども問題視しておりコンピュタの仕組みを知らないフリージャーナリストが面白おかしく拡散する。週刊ダイヤモンドやIWJなどで中途半端に取り上げられているのが見つかった。
そこで現場はどう思っているのだろうと思って聞いてみた。先日思い立って官公庁ではなぜCOBOLが使い続けられているのかを聞いてみたのである。これだけ世間に叩かれているのだから現場もさぞかし吹き上がっているのだろうと思ったのだが、それはとんでもない間違いだった。現場はいたって平和なのである。
Quoraには大勢のCOBOL関係者がおり彼らに質問を送った。だから、当然COBOL擁護の声ばかりが書き込まれることになった。面白かったのでぜひリンク先を読んでいただきたいのだが「十分に使えるものをなぜ入れ替えるんだ」という声が多いらしい。経営者はなぜちゃんと動いているのに新しいものにするのだと入れ替えに渋い顔をし、担当者も何かあったら責任は誰が取るんだと言われると下を向いてしまうということのようである。そもそも現在の設計思想ではうまく動いており、機能的にも十分に支えているという。平和な村の声を聞くと「あれ、世間はなぜCOBOLを悪者にするのだろう」と思えてくる。ただ、問題が出てくると今度は逆に「なぜ今まで放置していたのだ」と言われてしまい「俺はコンピュータに詳しいぞ」という人たちがいきり立つのだ。
ただ、この村の意見に一人だけ違ったことを言っている人がいた。当然バッチ処理の世界にも「新しい要件」はあり、これを現場の工夫で乗り切ってきていたという。しかしそれが局所依存になっており「新しい仕組みに乗り換えるのにどれだけお金がかかるかわからない」ことになっているらしい。つまり、経営者の無関心の他に、現場が良かれと思って工夫をしてきたことが足かせになっているのである。
こんなことになってしまう理由もわかる。COBOLは「中央集権的」に全てのデータを一つの所に集めてくる仕組みになっている。大量の単純なデータを一括処理するにはとても優れている。しかし、仕組みが大きすぎるので「ちょっとずつ入れ替え」ができない。一方今のコンピューティングは分散型といい「いろいろなことをいろいろなところで行う」ことになっているので、パーツごとの入れ替えが(容易とは言わないまでも)可能なのである。つまり、設計思想が全く違うのだ。
こうした中央集権的な仕組みのため「担当者がいなくなったら中で何が行われているのかが全くわからなくなった」ということになる。だが改めてこの中央集権から分散処理という流れを踏まえて回答を読み直すと、中にいる人は「マイグレーションができればCOBOL自体は問題がない」と言っており、この時代転換(よくパラダイムシフトなどという)に全くついてこれていないことがわかる。だから問題が捉えられない。
一方外から見ており問題点を指摘した人は「ハードの供給がなくなりつつありこれからどうなるのか見もの」と言っている。部外者だから問題が見えるが、この人にも対処はできない。インサイダーではないからだ。
このように「村」ができると中からは村の問題が見えず、外からは手が出しようがないという問題が生まれる。今実際に問題が起こっている。最近、新幹線の予約システムが止まった。日経系の伝えるところによるとMARSで時刻表を組み替えた際に不具合が起き、鉄道情報システムが不具合を起こしたらしい。どのようなプログラミング言語が使われてるかはわからないが、中央集権的なシステムなので、中央が不具合を起こすとJRが全てが止まってしまうのである。
日本人は基本的に「村を作り昔と同じことを繰り返す」のが好きだ。現場の声を聞くとわかるように「新しい仕組み」に乗り換えようというと様々なやらない理由が考案され改革は潰され、それを一人ひとりの善意と職人技で乗り切るということになっている。COBOLは長い間(1959年に作られたので今年で60周年だったそうだ)安定的に動いており地味な裏方として使われていたために更新が遅れたのだろう。そして、いよいよ持ちこたえられなくなると「村がなくなるか」というような騒ぎが起きてしまう。しかしそれをまた村人の職人技で乗り切ろうとするので「結局何も変わらなかった」となり、最後は座礁してしまうのである。受動攻撃性の原因はこの「諦め」だが、実はその前段階には「村の平和」があるということになる。
さて、今回はかなり絶望的な前駆状況をみたのだが、興味深い発見もあった。かつてと違い、現場の生の声がマスコミの情報なしでも手に入るようになったということである。今回の話は加工もしていないし知見はすべてたった4人から集めてきたものだが、問題の輪郭がかなりよくわかる。よくインターネットの情報はゴミばかりだという人がいるが、実はそれは全くの誤りなのだと思う。必要なものは全て手に入るのである。ただそれをまとめて解釈して社会改善に生かせる人がいないのである。
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