瀬戸内寂聴さんが「殺したがるばか者」という発言を謝罪した件をご記憶だろうか。今回、自分宛に届いたコメントを読んでそんなことを思い出した。
瀬戸内さんの政治的主張は置いておいて、死刑が「いけない」のは仏教的に<間違っている>からである。家族が殺されたときにそれに報復感情を持つのは当たり前のことなのだが、これは新たな因果を生む。そして因果は苦しみを招く。殺すことが罪なのではない。殺したがる感情そのもの苦なのである。
瀬戸内さんはそのことを朝日新聞の謝罪文の文末にほのめかすように書いてあるが、本当のところは瀬戸内さんにしかわからないのだし、そもそもこの件で「こだわり」を持つことをやめたのだろう。他人が代わって憶測することには意味がない。
前に書いたエントリーについてコメントをもらった。題材は中学校の生徒が自殺した問題だ。なぜこの子は死んだのだろうということを考えていて「正しい」とか「正しくない」というのは人を殺しかねないのだなと思った記憶がある。
これはちょっとショックだった。文章は読みようによっては「自殺した生徒にも落ち度があったのでは」というような内容になっている。故に「いじめた側は悪くない」というように取れるわけである。だが、実際に言いたかったことは「そもそも誰が正しい」ということが軋轢を生むということである。
この事件はすでに「正しい」「正しくない」というような波紋を作りつつある。いじめた生徒が悪いから探し出して晒せという声もある。逆に自殺した生徒の名前を探索する人も大勢現れた。家族は「単に匿名のいじめの被害者」ではなく、唯一の輝く命を持っていた存在としての娘を社会に認知させたかったようである。
コメントには「遺書にない「わざわざ」という言葉を加えることで、自分の考えた主張に誘導しようとしていると書かれていた。つまり「正しいか・正しくないかを追求することは苦しみにつながる」という文章を書いているのに、ある特定の人に味方する<主張>になっていると考える人がいたということだ。そういう意図はないと言うことはできるが、受け手にとっては理解した内容が真実なのだ。
その人はそれに腹を立て抗議のコメントを送るに至った。そしてそれを読んだ人(つまり私)は意図したのと違う<間違った>解釈をされたと腹を立てたのである。つまりは青森県で起きたいじめが新しい苦を生み出していることになる。これが因果が持っている力なのだ。
これは他人を傷つけかねない。この境目はどこにあるのだろうかと考えたのだが、結局のところ、前に考えたように外に向かうのか、内に向かうのかの違いだということになった。つまり、どちらかを罰する方向に向かえば、それは新たな因果を生み出していることになる。逆に私にとってこの事件が何を意味しているのかということを考えることは、そうした因果を超えてゆくための一つのプロセスになるだろう。
「正解は苦を生み出すのではないか」というようなことを書いておきながら、やはり正しく理解されなかったと考えてしまうことから、自分が正解にとらわれていることはわかる。これが苦を生み出しているわけで、そこから一人で抜けるのは難しい。であれば一緒にそこから抜け出す道を見つけようという意識が生まれたときに、そこに何らかの意味が生じるのだろう。
と同時に書いただけではそのことに気が付くことはできない。やはり外からのレスポンスというものがあって始めて気が付くわけだ。まったく同じ単語の羅列でもまったく違った結論が得られる。苦しみが苦しみを再生産することもあるし、それを打ち消す力にもなりえるのだ。
仏教の用語はよくわからないが、これを功徳というのかもしれない。苦しみから逃れるという作業はきわめて個人的なものなのだが、それを助け合えるという点につながりが持つ意味があるように思える。
というより、単にそう思いたいのだけなのかもしれないのだが。