大好きな英語系YouTubeチャンネルがある。今回は京大入試の英語を扱っているのだが「ああ、だから日本人は英語ができるようにならないんだな」と思った。この人はオーストラリアで働いた経験があり「いわゆるネイティブレベル」の英語が話せる人である。詳しくはわからないがCPA(国際公認会計士)の資格を持っているのだと思う。つまり実用英語をネイティブばりに話せるという人だ。だが、京大の英語の試験にチャレンジして苦戦している。
これだけを見ると「京大の受験英語が悪いのだろう」という話に聞こえるかもしれないのだが、もちろんそんな単純な話ではない。
苦戦の理由は京大受験英語独特の価値観である。この曲がりくねった文章は「形容詞を副詞的に訳さないと自然な日本語に和訳ができない」という特性があるのだと受験の専門家が指摘する。おそらくこの人の言っていることも正しいのだろう。
最初このビデオを見たとき、ビジネス英語やジャーナリスト英語と違って学術英語はこうした曲がりくねった英語が多用されているのだと思いQuoraで聞いた。面白いことが二つわかった。
- 難しい英単語は使われていないので英語話者がそのまま理解する分にはそれほど難しい文章ではない。つまり文章そのものは曲芸的ではない。
- そもそもこれは(おそらく進化論の)批判者を皮肉る文章であって婉曲的な表現で皮肉なユーモアを表している。つまり学術英語ではない。
つまりそもそもが京大の先生の「趣味の英語」なのである。
この文章の和訳がなぜ難しいのかということはわかった。昭和のエッセーを今の人たちが読んでも意味がよくわからないのに似ている。例えば遠藤周作のようにわざと持って回った表現をユーモアだと言っていた時代もあった。
ではそれが受験英語として適切なのかということになるのだが、ここからがややこしいところだ。そもそも受験英語の機能とは何なんだろうか?
大学は研究機なんなのだから受験英語の一義的な目的は研究に必要な読み書きができることだ。特に論文を読むことは重要である。次にある程度の選別のために難しい英語を理解して解説する能力もあるいは重要かもしれない。
一方で実用的なコミュニケーション英語は重要視されない。クリエイティブライティングにしろ学術英語にせよ「誤解なくシンプルに書くように」という指導がなされることが多い。MBAを卒業するためにも特に芸術的な文章を書く必要はない。
まず伝わる英語を勉強してから曲がりくねった英語が読み書きできるようになるという順番になっていればそれほど問題にはならないかもしれない。だが、まず婉曲で難解な英語を覚えることが目的かしてしまうと「シンプルで伝わる英語」が話せなくなる。ここを目標にしてはいけないのだ。
だが受験英語はそうなっていない。おそらく京大のこの学部には英語が極めて得意な先生がいる。皮肉で何を言いたいのかよくわからないような文章もきれいに和訳できてしまうのだろう。伝わる人ではなく曲芸的な知識を持った人が英語のオーソリティになる。実際にそれが受験に出るわけだから受験産業の人たちは「それを間違いなく解釈できなければならない」「わからないということは許されない」ということになる。つまり、誰かのせいではなく複合的に間違ったアジェンダが設定されてしまうのである。
誰かが悪いわけではないが組み合わさるとやっかいな問題が起こる。皮肉なエッセイが読めないからといって「いつまでも英語が話せるようにならない」と考えるのは間違いだし、そもそも皮肉なエッセイが読めるようになっても「伝わる英語」の練習にはならない。
例えばこんな感じだ。日本語で北杜夫や遠藤周作といった昭和の皮肉なエッセイストたちの文章を難なく読みこなす人たちがいる。文章を書くのは上手だがその文章はどこか昭和の響きがあり何をいっているのかもよくわからない。でもその人が日本語のオーソリティということになっていて平易で伝わりやすい文章を書く人やきれいに日本語を発音する人たちよりも「高級だ」ということになっている。
非常に残念なことだが、こういうことは実際によく起こる。英語版のQuoraにも自称日本語の専門家という人たちがいて「いやネイティブはこんな日本語は話さないけどな」というような日本語を披瀝しているケースは意外と少なくない。「日本語村」の中では日本人が何を書いても無駄なのだ。
2020年は文部科学省の英語入試改革が迷走した。誰でも公平に採点できる記述式の問題がどうしたとか、民間英語試験を受ける会場が都市部に偏っているとか、そうしたあさっての方向の議論に終始した印象がある。
だがおそらくその陰に隠れていて「曲芸をひけらかしそれが英語に熟達することなのだ」と考えている人たちもいるんだろうなと思った。いずれにせよ、英語入試改革が迷走する裏で曲芸的な英語入試試験が放任され「これが最高峰だ」ということになってしまうと、日本人は「使える英語を話すこと」と「受験英語を覚えること」の二つを同時並行でこなさなければならなくなる。他の国の人たちと比べて余計な仕事をしているわけだから、それは話せるようにはなりませんよね、という当たり前の結論になってしまうわけである。