ローラの政治的発言と所有集団

モデルのローラが辺野古基地に関する反対署名を呼びかけて話題になっている。これについて芸能人は政治的発言をすべきではないという人と、テレビで政治的発言ができないのがおかしいという声がある。これについて整理したい。




前回、所属集団・所有集団という概念を作った。日本人であると宣言した時、それが単に所属先(日本国籍を持っている)を意味しているのか、それとも「俺の国」と言えるかという問題である。実際に所有していなくても、俺の国と言えた方が「所有感覚」が強いといえる。

まずは、テレビが政治的発言を禁止している理由を考えよう。アメリカなどのいわゆる民主国家は個人の理想(イデオロギー)を実現するために作られた国である。こうした国では個人が意見を持つのは当然のことであり、当然テレビもその社会思想によって「設計」されている。

ところが、日本はそうなっていない。テレビはスポンサーの意向を無視することはできず、電波は国からの免許を受けている。それぞれの利権集団は集団として集めた意見を集約してその一番大きな単位が国になっている。だから異議申し立てをするとしてもそれなりの通路を通じて決まった方法で集約していかなければならない。この意見集約を根回しや調整などと言っている。だから「芸能人が個人的に勝手に」そこから外れる発言をされると「調整ができずに困ったこと」になる。日本の芸能人は個人の意見を代表しているわけではなく、テレビ局、企業、政府といった集団で決まった決定事項を「告知する」ために雇われているいわば出入り業者なのである。

日本人は村が階層構造を持ち、最終的には中心に何もできない権力者を置いた上で少人数で意思決定するというやり方を好む。また、最小単位である村は相互に意思確認可能な少人数の集団であって、トップにいる人たちは村が何を考えているのかわからないという構造もある。かなり複雑で緻密な構造体なのだが自然発生的にできているので、日本人もこうした構造があることをあまり意識しない。

例えば、日本人は会社でも会議では賛成しかしない。会議というのは、意思決定に参加できなかった人が行き場のない感情をぶつける場になることはあっても、意思決定が覆るようなことはない。表は裏で根回しが終わったことを最終的に承認して見せる儀式の場に過ぎないのである。日本人は表で意思決定が覆ることを好まないので、野党が支持されることはないのである。だが、トップにいる人たちがトップダウンで何かを決める場所ではない。トップの人たちは情報を持っていないか、そもそもお飾りかのどちらかなので、意思決定はできない。この集団を通じたボトムアップというのが日本型の民主主義の特徴である。

芸能人が事前に打ち合わせたのと違う意見をいうというのは、そもそも会議での不規則発言のようなもので、日本のような社会ではあってはならないし、もしそんなことが起こったら日本人は意見調整ができなくなる。会議に権限がないので、会議の意思決定をボトムに流す仕組みがない。だからそれが儀式に過ぎないことがバレてしまうのである。

しかし、日本では民主主義が機能していないと感じる人びとは多いはずである。これは、村から排除されてしまい所有をしている組織も所属をしている組織もないという人が増えているからであろう。つまり、日本ではフリーの人には人権がないのだ。

デモが政治的プロセスとして組みいれられている国ではデモの結果を受けて意思決定が変えられる可能性がある。それはデモが一人ひとりの意見を反映していて、なおかつ一人ひとりの意見が国を作るからである。韓国もまた国防に国民のフルコミットが必要な戦時体制下にあり民意は大切である。こうした国ではデモが政治的に機能する。

日本でデモに参加したいという人が増えているのは、村の複雑な仕組みが日本の統治機構として機能しなくなっているからだろう。もっともわかりやすいの現象は「うちの会社では」と言える労働者が減っていることだろう。終身雇用が当たり前だった時代には、労働組合が指定した候補者に入れるなどということが当たり前に行われていた。

加えて、日本もリスク社会化しており、「嫌なこと」が増えている。いわゆるリベラルな人たちが嫌っているものは「バイキン」に置き換えられる。例えば戦争・原発・大気汚染・給食を洗浄する水に含まれる塩素・遺伝子組み換え食品などは全てバイキンである。合理的に拒否したいというわけではなく生理的に嫌なのだ。これが日本のリベラルが政治的意見に見えない理由だ。政治的発言というよりは身の回りを除菌してきれいにしておきたい欲求として捉えるとわかりやすい。だから彼らには合理的な対案などない。床に落ちた食品は捨てるしかない。そこに対案などいらないのだ。

ローラの政治的発言はその意味ではとても厄介な場所にある。ローラは個人の意見が政治の基礎にある国を真似して「国際的セレブ」という印象を与えるために政治的発言を行っているものと考えられる。これ自体は悪いことではない。問題は日本にはそうした素地が全くないという点である。

そもそもローラがどうして辺野古の基地建設に反対しているのかはわからないし、彼女のその他の価値観と辺野古がどう接続しているのかもわからない。あるいは通底するものなどないかもしれないのだが、それは個人の内心を持たないかあまり興味がない日本社会としては取り立てて珍しいことではない。

さらに、それを支持する人たちは「サンゴ礁が壊されるから嫌」とか「戦争はいけないことだから基地はダメ」と言っているだけであり、必ずしも国防に興味があるわけではない。これは沖縄の当事者たちの政治的意識とも少しずれているし、もちろん日本の政治的な意思決定とも接続していない。いわばアレルギー反応なのである。

前回は「所有がないことに対して日本人は関心を示さない」ということを見たのだが、実際には「所有がないことにも関心を示す」場合があることがわかる。これが生理的欲求である。免疫細胞が嫌だと思ったものを排除し時には過剰反応してしまう生理現象がアレルギーだ。

ここまでの考察を整理しよう。日本の芸能人がテレビで政治的意見を表明でいないのは日本の意思決定の仕組みがこうした「不規則発言」を処理できないからだ。それなのに「政治的発言をしたい」という人が増えるのは日本の統治機構が壊れかけているからである。だが、個人の内心が国を作るという認識がほとんどないので、西洋のセレブを表面的に真似てもそれは政治にはならない。しかし、もともとそうした政治意識がないのでそれに違和感を感じる人はそれほどいないということになる。

このため、日本人はこの問題をきっかけに辺野古や日本の国防といった政治課題について考えることはない。ただただ、芸能人が政治的発言をすべきなのか、そして今回の意見を無視しても構わないのではないかという議論だけがひたすら行われるのである。

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