リーダーとは何か

集団は権限の一部をリーダーに委譲することで自分たちを外敵から守り、協力関係を築くことができた。しかし政治的リーダーだけをみてもその種類は一つというわけではない。外に打って出るための組織に必要な父性的リーダー、内部調整のための母性的リーダーが存在するのであった。また、破綻しかけの組織にはコドモ型リーダーが出現するかもしれない。例えば自民党末期の麻生太郎さんはコドモ型リーダーだろう。このようにリーダーの性質を見ると、その組織がどんな状態にあるのかをも見る事ができるかもしれない。リーダーには国際的なバリエーションもあるようだ。アメリカのような個人主義・平等な社会のリーダーと、中国のように集団主義・権力格差が大きい国のリーダーでは期待される役割が異なるはずだ。
さて、ここまで考察してきたところで、教科書的なリーダー像について勉強してみよう。ハーバード流リーダーシップ「入門」を使った。リーダーシップに必要なものは2つ。ビジョンとコミットメントだ。リソースを適切に管理して、プロセスを円滑に進める人たちをマネージャーと呼ぶ。ただプロセスがうまくいっているかを見るのが監督者である。このように指導者だからといってリーダーというわけではない。ある目的を設定して、そこに導くのがリーダーというわけだ。一方、コミットメントとは「本気で取り組む」こと。コミットメントを示すためには、言動が常に一致していて、熱意があり、言動と行動が一致している必要がある。
さて、ビジョンが明確で、理にかなっているものであれば自動的に採用されてもよさそうである。しかし、実際には、人はビジョンだけでは動かない。どうにかして、このビジョンが本物で信頼に足るものだということを納得して貰わなければならないのだ。コミットメントが重要なのはそれが人を動かすからだ。
リーダーの性質は生まれついてのものと考えられがちである。これをカリスマ性と呼ぶ。しかし実際にはカリスマ性がなくてもリーダーになる人たちがいる。リーダーはいくつかの資質を使って人々に影響を与える。

  • カリスマ
  • 専門知識
  • 地位や立場(地位が先にあってリーダーシップを発揮することがあると筆者は指摘する。逆に地位があってもリーダーでない人たちがいるということになる。もう一度、マネージャー、監督者、リーダーの違いについて考えてみよう)
  • 成功実績(過去うまくいったから、未来もうまく行くだろう)
  • コミットメント
  • 共通の価値観(人は、共通の価値観を持っている人をリーダーに担ぐ傾向がある)
  • 共感(話を聞いてくれる人はリーダーとして受け入れられやすい。聞き出すために、アクティブリスニングという手法が用いられることがある)

リーダーとは何か

この本は、MBAの学生向けにリーダーについて書いている。本の最初の部分はこのようにリーダーについて定義しているのだが、後半はキャリアマネジメントについて書かれている。MBAを取りたいと思う学生はリーダーの地位を熱望してマネージャーのキャリアをスタートさせるわけだ。この点が日本と異なる点ではないかと思われる。日本人の場合、給料が上がるから管理職になりたいと思う人は多いだろうが、必ずしも責任を伴うリーダーのポジション(そう、リーダーには権限だけではなく、責任も伴うのだ)を熱望する人は多くないのではないかと思われる。
また、リーダーの役割が比較的狭義に解釈される。それは集団を今いるところから他の場所に移すのがリーダーだという考え方である。常に変化していない集団はそのまま衰退に向かうだろうということである。これが現状維持を求める日本の集団との大きな違いだ。集団が変化に対する消波ブロックのような役割を果たすと、リーダーに求められる資質は異なってくるように思える。
アメリカに比べると日本は集団性が高い。個人の資質ではなく集団の総意が重要な社会だ。集団内に権力格差が大きければ「偉い人の言う事を聞く」という文化が生まれる可能性があるのだろうが、日本人は中国人程は権力格差を持っていない。故に結果的に突出したリーダーが出る事を嫌い、コンセンサスを重要視する文化が生じるのではないかと思われる。
強いリーダーを求めない集団では(これは日本だけではなく)、ビジョンを元に強力なリーダーシップを発揮しようとする人がいると引き摺り下ろしが始まる。引き摺り下ろされないようにするには、相手のいうことを聞いた共感型・調整型のリーダーになるか、畏怖心を抱かせる(あの人に逆らうと怖い)になる必要があるように、いっけん思える。

リーダーシップとは取引ではない

しかしリーダーシップについての議論をもう一度見ておこう。リーダーシップはビジョンを通して人々に影響を与えるということだった。これは取引とは異なる。取引は「〜してあげる代わりに」「〜してくださいね」といって支持を取り付ける事だ。一方リーダーシップは「一緒に〜に行くといいことがある」と納得させることなのだ。リーダーシップは取引することなしに、相手を動機付け(モチベーション)、規範を示すということが言えるだろう。
集団が老化現象を起こすと、変革の意欲がなくなってしまう。ここでR/C(レベニューとコスト)に対するモニタリングが利いている組織であれば、やがて失敗の少ない事業しか行えなくなり、やがてはコスト削減しか取り得なくなる。顧客に影響を与えることなしにRを変化させることはできないが、従業員は自分たちの支配下にあるからだ。すると変革に対するリーダーシップを取り得る人材は外に流出する。すると自己変革ができなくなる。これが死のスパイラルを形成する。
自民党では別の事が起こった。自民党にはR/Cモニタリングは働いていない。組織がうまく動いていた頃には、複数の候補者が血みどろの勢力争いを行いリーダーを決めていた。小泉純一郎のように「変革します」というような人たちもいた。しかし組織が老化するに従って「みんなで仲良く決めよう」というようなことになり、自分たちの権益を侵害しなさそうな穏やかな人たちをリーダーとして頂くようになる。すると自己変革ができなくなる。自民党には顧客はいないのだが、有権者がそれに当たる。自己変革して「ビジョン」を示さないと、変化した有権者の欲求には応えられない。そして「みんなでやろうぜ」から「みんなで逃げよう」に移行して、最終的な分裂がはじまった。組織には「形式を維持しよう」という機能と「自分たちを変えて行こう」という機能があるのだろう。これが微妙な均衡が働かなくなったときに組織の死が訪れるのかもしれない。
民主党はまた別の経過を辿っているように思える。「ビジョン」に当たるものはマニフェストだったのだが、2009年のマニフェストを見ると「どのように利益を分配するか」という取引のリストになっていることが分かる。農村にいくら、コドモを持っている母親にいくら、沖縄にいくら、高速道路を使う人たちにいくらといった具合だ。自民党は成長期の政党だったので、アメリカ型ではないにしても「ビジョン」を作る機能を持っていたのだが、民主党は低成長ないしは縮小期の政党でありビジョンを作る機能がビルトインされていなかったのだろう。結果的に取引に長けた党のリーダーと、理想は語るけれどメンバーの権限を制限しない「お飾り型」のリーダーが管理する体制に落ち着いた。
「民主党にはもともとリーダーシップはなかった」と言えるかもしれないし、「国民はリーダーシップなど求めていなかった」と取る事もできる。もう変化はいいよというわけである。国全体が小泉純一郎さんの作ったビジョンにうんざりしている。フォロワーたちは分かりやすいビジョンに飛びついたが、結果的には搾取されるだけだったからだ。同じ事が企業にも言える。1990年代の終わり頃、低成長期に入ったころ「変革しなければ、淘汰されてしまう」というようなビジネス書が氾濫した。結局これでトクをしたのはコンサルタントの人たちと一部のIT産業だけだった。そのあと起こったのはコストカットの嵐だったわけだ。今20年程たって、あのときにミドル・マネージャだった人たちが、企業のトップに立っているのだが、彼らが変革に対して懐疑的なのはむしろ当たり前といってもよい。
さて一体何が悪かったのか。多分「変革」をどう行うべきかという議論が欠けていたからだと思われる。ビジョンは変革するために作られる。故に変革に失敗したビジョンは組織のトラウマを残すのである。次回は変革管理について見て行きたい。

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