マルコム・グラッドウェルの「天才!成功する人々の法則」を読んだ。原題はアウトライヤーという。標準値から外れた例外的な人といったような意味合いだ。成功するには並外れている必要がある、というな含みがある。アメリカは個人の「才能」を重視する社会だ。こういった天才がどうやってつくられるのかというのがメイン・テーマになっている。
マルコムは次第に、才能があるのは必要最低の条件であって、天才であっても環境が整わなければ才能が発揮できないのではないかということを見つける。例えばIQが195あってもめぼしい成功を収めることができなかったクリス・ランガンという人が出てくる。この環境が何かということは細かく定義されていないのだが、豊富な資源と機会のことのように思える。マルコムは自主性・複雑さ・努力に見合う報酬を列挙する。
天才と呼ばれる人が才能を発揮するには、練習を積む必要がある。ここでは経験的に10,000時間という練習数字が提示される。つまり才能+後天的な何かが必要だということだ。そういった言葉は出てこないが「技術(スキル)」と呼んでもよいだろう。練習するためには、それに専心できる環境が必要だ。いくらコンピュータ・プログラミングの才能があっても、コンピュータを使える環境がなければ練習を積む事はできない。だから環境は重要なのだ。
もう一つ環境が重要なのは、そこに文化が絡んでくるからだ。文化にはいろいろな傾向がある。ここでは「権力に対して率直に意見を言える文化」「率直に従える文化」「けんかっぱやくない文化」などが挙げられている。いくら才能があっても文化的な傾向が抑制されてしまえば、芽が出る事はないだろう、とマルコムは考える。
この考え方は東洋哲学にも出てくる。才能を「命」、環境を「運」という。これをあわせて運命と呼ぶわけだ。成功できるかどうかは運命次第ということになる。
さて、日本のコンテクストではこの文章はちょっとした読み替えが必要だ。日本は長い間、環境が同一であり、才能も同一だという前提があった。同じくらいの才能の人を選抜して集めることが多かったからだ。才能にばらつきがある場合には、違いがないフリをしつつ低い方に合わせることが多い。あとは努力次第ということになる。こういった環境ではちょっとした差違が大きな違いを生むと思われやすい。状況が膠着してくると、やる事がないから「もっとがんばれ」というようにいっそうの努力を求めることになる。
また「英語さえできれば」といったように、スキルがあればなんとかなると思い込みたがる。スキルは努力すれば身につけることができるからである。しかしマルコム・グラッドウェルに言わせれば、努力だけしても環境が整っていなければムダなのである。特に現代のように成功の機会の限られた社会では、努力の浪費は日常茶飯事の出来事だ。
このような努力重視型の社会はいろいろな意味で才能を無駄遣いしている。一つは才能のない人に努力をさせているということ。もう一つは才能がある人につまらない努力をさせていること。そして最後には環境が整わないのに努力だけさせているということだ。最後の環境についてはすこし理解が進んで来ている。学力テストの結果「貧富の差が学力テストにあらわれている」からだ。お金がないから塾に通わせないということが学力格差につながっている訳ではなく、勉強をする文化がない層が顕在化していると見た方がよさそうだ。例えば夏休みに塾に通わせる家庭と、別に何もさせない家庭はお互いに交流がない状態になっているのだそうだ。ものすごく頭がよいのに、勉強しない家庭に生まれたがために実力を開花させることができないこともあるかもしれない。サッカーが飛び切りうまいのに、そういった才能を重要視しない家庭というのもあるだろう。一方、飛び級のような制度もないので、才能のある子どもも中庸な子どもが同じカリキュラムで努力させられている可能性も否定はできない。
最後にクリス・ランガンの話に戻る。IQが飛び切り高く家で独自に研究をしているそうだ。確かにマルコムが指摘するようにこの人が才能の無駄遣いをしている可能性もなくはないのだが、彼の優れた才能が後世に評価されないとは限らない。我々がまだ理解できないだけなのかもしれない。マルコム・グラッドウェルは最新の研究を私たちが持っている常識に引きよせる点に価値があるのだが、学術的な裏付けが十分にあるものではない。ただ、それらを差し引いても、才能、技能、環境のバランスという視点は、今ある環境で我々が才能や努力を無駄遣いしていないかを確認するのに役立つだろう。