年末にダウンタウンの浜田さん関連の2津の番組が炎上しているのを知った。これがまだ尾を引いているようで様々な観測が流れてくるのだが、例によって反応が二極化している。一方は人権を念頭に置いて浜田さんは野蛮だと言っており、もう一方は日本人は日本人の規範を持ってさえいれば何も恥じ入ることはないのだと開き直っているようである。
さらにこの2つの問題はほぼ同等のものと捉えられているのだが、実際にはベッキー問題の方が根が深い。現実世界でいじめがどう隠蔽されているのか、観客がどう加担しているのかということがよくわかる。また、その奥を下がって行くといじめが我々の世界で麻薬のように働いているということもわかる。そして、そのことに多くの人が気がつき始めている。
そもそも、これらの問題において、どちらの側が正しくてどちらが間違っているのだろうか。
正しい笑いについて正面から捉えようとすれば「笑い」の本質について考えなければならなくなる。ベルクソンの笑いについての分析が有名である。ベルクソンは笑いは社会的な何かであり、結果として緊張の緩和が生み出されると考えた。つまり、笑いが起こるためには見ている人たちが共通の了解事項を持たなければならないということになる。たかがお笑いなのだが、実は社会批評に使えるのである。
エディー・マーフィーはこの「了解事項」の枠組みのわかりやすい例だ。エディー・マーフィーのビバリーヒルズ・コップについて知っている人たちはある程度の年齢層の人たちであろう。原典がわからないとこの笑いを共有することができない。従って浜田さんはかつて獲得した人たちをターゲットにして笑えるコンテンツを作っていることになり、それは同時に新しい人たちを獲得できていないという意味を持っている。
この枠組のずれが作り出したのが今回の騒動である。
アメリカの文化に詳しい人はこの笑いから「ミストレルショー」を想起してしまう。テレビなので当然こうした人たちの目にも触れるし、二次的に消費される過程でTwitterにも広がり、さらにそこから海外にも発信される。教養のある人ならそれが黒人の屈辱に結びついているということをよく知っているだろうし、さらに教養があればアメリカでは東洋人も嘲笑の対象になっているということがわかる。
アメリカには第二次世界大戦当時のプロパガンダに端を発するつり目で意地悪な日本人の類型があり、性格は疑心暗鬼で狡猾なものと決まっている。日系人はキャンプに封じ込められて差別された歴史がある。浜田さんの外見はこの類型に当てはまる。甲高い声で童顔のみっともない東洋人なので、差別される人が他人種を差別して悦に入っているという、とても醜悪で正視しがたいものに見えてしまうのである。
我々が浜田さんに容易に同意できないのは、視聴者がもはや同一の視点を持っておらず、従って笑を共有できないからだ。ある人は昔を想起して懐かしんでいるだけなのだが、別の人たちには許しがたい暴挙に見える。さらに<議論>に参加する人たちのなかには、ジャポニズムもいけないことなのかとピントのずれた議論をしている。彼らはこうしたコンテクストを共有していないのでこの笑いの埒外なのだが<議論>に参加して人権擁護派の鼻を明かしてやりたいと考えている。こうして<議論>はなんら解決策を持たないまま発散してしまう。
今回話題になった二つの問題のうち、和製ミストレルショーはまだ軽い方の問題だ。もう一つのベッキーの問題はさらに深刻な問題を孕んでいる。笑いは共感を通して集団が結束するために有効に働くのだが、その共感のメッセージが問題になってくる。ベッキーさんは芸能界という村にしがみつきたいと考えており、そのためには笑い者になって人々の結束に奉仕せよと言われているのである。さらに悲劇的なことは、いじめのターゲットになったベッキーさんは「あれは美味しかった」ということで、加害者側を正当化するメッセージを送っている。
もちろんこれを「コミュニティに受け入れてもらっているのだから愛である」と捉えることは可能かもしれない。しかしながら実際には玩具として村から弄ばれているだけであり、慰み者か生贄になっているにすぎない。そして、同じようなちょっとした間違いを犯した人たちに「生きて行きたければ、慰み者になれ」という搾取を正当化するメッセージを送ってしまうのである。
無論ベッキーさんが意図してこのようなメッセージを送っているとは思えないのだが、実際には芸能事務所の制裁的な感情があることは間違いがない。つまり「正しい側」として売り物にならなくなったジャンク製品をどうにか二次利用してやろうということだ。
しかし、なぜ社会は慰み者を必要とするのだろうか。
笑いによってもたらされるのは緊張の緩和だ。つまり、笑って見ている人たちが「社会的に真面目な人生」を生きており、「真面目でない人たちに暴力をふるってもよい」と考えていることになる。つまり鬱憤を晴らすためにベッキーさんを生贄として屠っているということが予想される。彼らは、潜在的に「正しくないもの」として叩かれる危険を感じているか、「正しいもの」なのに十分な報酬をえていないと感じているのではないかということがわかる。
しかし、いじめている側は明らかに「いじめはいけないこと」と感じている。観客は正しいものとしてそこに存在するのだからそれはいじめではなく愛あるいじりでなければならない。侵略戦争をする側が「キリスト教で善導してやるのだ」とか「アジア民族を解放してやるのだ」と言いたがるのと同じことである。
そこで「許してもらうための禊であり、本人もありがたがっている」という体裁付けをしており、これを本人にも言わせている。これはいじめをいじりとして隠蔽するのと全く同様のよくある手口であり、ベッキーだけではなく、学校や職場で普段から行われているいじめの正当化にもつながりかねないという危険性がある。
この背景には「真面目に生きている人たち」が、誰か不真面目な犠牲者を引き合いに出さないで自分たちを正当化できないという事情があるのではないだろうか。つまり、我々の社会はどういうわけか誰かを犠牲なしには成り立たないほど緊張しているということになる。そこで、道を踏み外した人たちが常に必要とされるのだ。こうした社会の一番の危険は、つまり「この人は道を踏み外している」という指摘があれば、誰でも私刑の対象になり得るということである。いったん指を指されたら最後、もはや社会の奴隷として生きてゆくしかないということになる。間違いを償う道はなく「蹴られても文句は言えない人」として生きて行くか、別の人をいじる側にならなければならないのである。
私たちが人間関係の軋轢に接した時には二つの反応があり得る。一つは社会を改善することを通して問題を解決するという方法で、もう一つは誰かをいじめる側に回ることでうさを晴らすという方法である。実はこの二つの反応はちょっとした変化によってどちらにも触れ得るのではないかと思う。いじめの容認は、その場では簡単な方の解決策なのかもしれないのだが、蓄積すると問題解決をより難しくするのだと思う。
どちらの問題も「人権上の問題」という共通点があるのだが、実は構造的にはかなりの違いがある。和製ミストレルショーの場合には「アメリカの事情など知らない」という議論は十分に成り立つ。そもそもダウンタウンの芸はいじめの一種であり、日本では長い間これが当たり前のように流通してきた。例えばこれを韓国やタイなどの暴力に敏感な国に輸出することはできない。その意味ではもともと内向きな笑いの一種といえる。才能が枯渇して過去にすがるしかなくなったコメディアンが過去の栄光にすがっているだけと考えることができる。
だからこそベッキーさん問題が出てくる。弱いものを叩いて社会の笑い者にする方が、より多くの人にリーチできる。ワイドショーが好きな主婦から学生までこうした「笑い」を理解できる人は多い。
テレビ局は公共の電波を使っており、こうした私刑まがいの番組を「お笑い」として流すべきなのかという議論は当然あってよい。和製ミストレルショーよりもベッキーさん問題の方が人権上の懸念は大きいので、女性の人権について考える人たちはBPOなどに提訴することを考えた方がよいだろう。もしこれが許されれば「不倫女は足蹴にしても良い」という社会的な合意ができてしまう可能性が高いからである。
しかし、実際の問題は、私たちが共通して安心して笑えるようなモチーフを持ちにくくなっているということなのかもしれない。社会全体がとても大きな不安を抱えていて、誰かを生贄として屠ることなしには、緊張が緩和できなくなっているということになる。こうした笑いは痛みを忘れ去れてくれる効果はあるが、かといって根本的な解決策にならない。その意味では不倫いじめの笑いは麻薬に近いといえるだろう。