ファッションステートメントと政治的ステートメント

前回以来、日本ではどのように政界再編が起こるのかということを考えている。日本人は自分こそが世界の中心であり、他人はすべてバカで偏っていると考えているので、政界再編は起こりえないだろうというような結論に達しつつある。だが、現政権が信任を失い、その政権から外に出た人たちがそれをテイクオーバーするというような政権交代は起こるかもしれない。

政党ができるためには、そもそも個人が考えを持っていなければならない。考えを持つためには自分の考えを相手に伝えて他人と比べる必要がある。もし自分の考えをうまく相手に伝えることができなければ、政党を作ることはできないし、そもそも政治参加することすらできない。

そこで今回は個人が自己の意識をどのように打ち出すかということを考えたい。最近WEARでの投稿を続けている。最初は自分というものがあり、それにふさわしい洋服があるのだろうと考えていたのだが、実はそうではないようだ。スタイルがあってそれに合わせて自分を変えることができるのである。ただしそこにはリテラシーのようなものはあって、ある程度の文法がわからないと意味をなさない。その意味では、ファッションは外国語を勉強するのに似ている。

WEARを見るとこうしたことができている人が少なくない。つまり企画意図通りに表現ができている。たいていの人は「いろいろな表現ができる」というところを通り越して、一貫した私というものを打ち出している。いわゆるセルフブランディングだ。

だが、そうでない人たちもいる。WEARには目線を隠すことができる機能がある。ある人たちは顔がぐしゃぐしゃに崩れている。つまり、服は打ち出したいが、個人は絶対に「晒したくない」という人が多いのである。自分を社会に晒すことをリスクだと感じているのだろう。過去に自分を打ち出して罰せられた経験があるのか、それ以外の理由があるのかはわからない。

こうした人は男性にも女性にもいるのだが、特に女性がひどい。なかには、自己表現が却っておざなりになってしまう人たちがいる。完全に逆効果だが「自分を隠したい」という意識のほうが勝るのだろう。背景にも気を配らず台無しになっているものが多い。

そこで「女性は遺伝子的に自己を客観視するのに向いていない」という仮説を立てることができるのだが、これは間違っている。Lookbook.nuというサイトがある。もともとWEARはこれを参考にしていると思うのだが、こちらには女性の写真がたくさん掲載されている。女性の方がファッション写真の作りがいがある。男性は服も体つきも直線的で退屈だが、女性には曲線部分が多く洋服にも装飾要素が多く、写真の作りがいがある。

このことから、日本人が個人を打ち出すことには多くの困難があることがわかる。女性の方がひどいと思えるのは、WEARの男女比率が2:3だからだろう。つまり女性の方が裾野が広いので「個人の打ち出しをするスキルがない」人が目立ちやすいのではないだろうか。男性でファッションに興味がある人というには、職業的にファッションを扱いっている人がメインだ。そこで職業的な鎧があり「私を打ち出す」というよりは職業的なキャラを作っているのである。

そこにあるのは、自分は打ち出したくないが、憧れている人たちと同じコミュニティに居たいという同化意識ではないだろうか。

同じことがTwitterでも見られる。男性の方が政治的な発言をしたがるが、個人の意思は打ち出したくないし、打ち出すスキルがないという人が大勢いる。匿名にすることでそのバーは下がるが、それでも自分のオリジナルの意見というものを形成することをリスクだと考える人も多いかもしれない。

こうした状況は日本人が英語を話せないのに似ている。日本人が英語を話せない理由は間違っている自分が恥ずかしいからであると考えられる。さらに付け加えれば英語を話せるとかっこいいという憧れがある。が、よく考えてみると、英語で何か伝えたいことがあるというわけではない。

実際にやってみるとわかるが、誰も人の書いたものを読もうなどとは思っていないわけで、ネットの活動というのはほぼ独り言に近い。つまり、演出を加えたからといって気にかける人はほとんどいない。だから、好きに演出すればよいわけである。多分、自己を打ち出すことの難しさは「全部否定されたらどうしようか」ということだと思うのだが、表現を否定されるということは人格を否定され流こととは違っている。だが、それもやってみないとわからないことだ。

他者に対して自分を打ち出すことは「セルフブランディング」というスキルになっている。決して自分そのものを打ち出すことではなく、他人に受け入れられる自分を想像するということだ。「経営者にこそ知ってほしい、SNSを活用したブランディング手法」というエントリーを読むとわかるように「打ち出せる人」と「打ち出せない人」が分化してゆくという社会に住んでいる。

個人がまとまることができないとか、他人の動向を気にするというのはアメリカ型の社会でも起こり得るものと思われる。リースマンの孤独な群集などが有名である。オルトライトと呼ばれる人たちもいるが、たいていは知的能力があまり高くない人たちなのではないかと考えられる。だが日本人の場合はここに「他人の目を過剰に気にする」という意識が加わるためにある程度知的能力が高い人でも時々とんでもないことを言ったりするのだろう。

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