パーソナルギフト – 祝祭化する日常

「ギフト市場が変わりつつある」のだそうだ。お中元やお歳暮などの「建前」ギフトが廃れ、家族やお友達に贈り物をするのが流行しているのだという。ある調べによると、17兆円のギフト市場のうち8.6兆円がパーソナルギフトに使われている。2000年と2009年を比較すると154%という成長率なのだそうだ。一方で、法人の儀礼的な贈り物や、上司や部下へのお中元やお歳暮なども廃れつつある。

これをマーケティング的な立場から肯定的に捉えることはできる。パーソナルギフトは、現代的な顕示的消費の一種だ。家族への贈り物は「すてきな私とすてきな私を取り囲むすてきな人たち」というCMから抜け出たような幸せな関係を確かめ合う絶好のイベントだといえる。これは「本音で私らしさを表現できる絶好の機会」なのだ。

こうした「あるべき幸せ像」というのは昔から見られる。日曜日には私鉄に乗って渋谷にお出かけして、祝祭的な空間を楽しむというパルコ風の絵柄だ。仲良し母娘の進化した形が、パーソナルギフトなのではないだろうか。

このパーソナルギフトは、母と娘の親密な関係が基礎になっているものと思われる。だが、それだけでは父親に対して「不公平」なので、父の日もイベント化する。妻の実家に対してだけ贈り物をするのは「不平等」なので、夫の実家にも贈り物をするようになる。それをソーシャルメディアで見せびらかすのが、現代の幸せの形なのだろう。

いっけんよさそうなパーソナルギフトだが、本当にそれでよいのかという気持ちにもなる。CMに出てくる家庭はサザエさん一家のようなものだ。絶対に年を取らないし、病気になることもない。現実の家庭から「幸せな部分」だけを切り取ったのが「ありのままの私たち」なのである。

ところが現実はサザエさん一家のようではない。女性には濃密すぎる母親との関係に疲れている人が少なくない。例えば『家族という病』などという本もあるし「重すぎる母親」というワードで検索すれば、複数の本が出てくる。自己の考える幸せ像というのは意外と偏狭なものであって、それに沿わない家族は「重すぎるお荷物」扱いになってしまうのだ。仲良くなりたいのにネガティブな感情をぶつけられて疲れてしまう人が多いということだろう。

妻は「義理」で夫の家に付け届けしているに過ぎないのだが、マーケターはこれを「本音だ」と見なす。だが、妻たちは「夫の家で見ず知らずの親戚と一緒の墓に入りたくない」と考えているし、病気などの「辛い現実」は見たくない。それは「私らしさ」とは関係がないからだ。

例えば法事のような行事では「私らしさ」は発揮できない。それらは堅苦しく儀礼的なものと考えられ忌避される。私たちがどこから来てどこに行くのかという問題が見過ごされてしまうことになる。

実際には家族には不都合な現実がいくつもあって、それを受け入れてゆかなければならない。家族関係が祝祭化するということは、それだけ現実を見ていないということの裏返しでもある。

この状況の一番困難な点は何だろうかと考えた。人生には陰影がありそれが「私らしさ」を作り出している。そこから良いところだけを切り取りインスタグラムにアップし、悪いところをクローゼットに隠しても「本当の私」にはならないのだ。それを見て他人の家庭をうらやましく思い、自分の影の部分をさらに隠すという悪循環にはまる人もいるだろう。

マーケティングで作られた「私らしいステキな生活」は、人々に重荷を背負わせかねないのである。

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