日本の精神科医は合法的なクスリの売人になっている。多くの人がこの現実に気がついているのだが解決の道筋は見えない。当事者の精神科医が被害者意識を募らせているからだ。
日本の精神科治療は遅れていると指摘されていることが多い。単に薬を処方することが医学だと見なされているからである。ある種の組織的薬害とも言えるのだがその裾野は子供にも広がっている。東洋経済が「子どもに「向精神薬」を飲ませた親の深い後悔」という連載をしている。
この記事によると、親を苦しめているのが学校の同調圧力だ。子供の特性に合わせた教育プログラムを組むのが学校教育の役割のはずだが教育プログラミムに合わせて子供を変えようとする。そのためのツールがお薬なのである。何か問題があるたびに薬を飲ませているかと聞かれるそうだ。
だが親はその副作用と精神的な依存性に気がつきこれはいけないのではないかと悩み始める。これが二番目の障壁である。つまり親には知識がなく投薬と病床によって計測される日本の医療制度には相談カウンセリングというメニューがない。医師が相談に費やした時間がカウントされないからである。
制度に守られていない上に守られていないことにすら気がついていない親は二つの障壁にぶち当たる。最初の障壁は学校の側の同調圧力だ。組織の都合に合わせて個人を抑圧しようとする。だがもう一つの障壁がある。それが精神科医だ。この文章にはムッとする医者という表現が出てくる。
医者はなぜムッとするのか。実際にどう思うのか聞いて見た。すると「記事は読んでいないが」という回答ばかりがついた。そもそもテキストを読んで共通認識を作るという考え方を日本人はしないのだ。だが、多くの回答は二つの理由を挙げていた。
- 医者は診療報酬目当てに薬を出している。患者が拒否するとそれ以上患者をカモれなくなる。そこでムッとするのだろう。
- 医者はプライドばかりが高く患者が異議を申し立てることを嫌う。権威に挑戦されたと考えてムッとするのだろう。
すると程なくして医師側から反論がついた。
- 薬を飲んだり飲まなかったりする患者が悪い。にも関わらず状態が安定しないとして医師にクレームを入れてくる親がいる。迷惑な話だ。
- 患者が自己判断で薬をやめてきたいと言い出すことはよくあるのがもう諦めている。せいぜい我々にできることは診療記録をつけて裁判に備えることくらいだ。
医師も指定されたテキストを読んでみようとはしなかったことがわかる。そして、医師の側は医師の側で被害者意識を募らせていることがわかる。
患者と医師はそれぞれテキストを読んで共通認識を作ろうとは考えない。そして普段からの思いをぶつけ合うのだ。議論は起きず感情をぶつけると元の巣穴に戻ってしまう。議論なき日本ではよく見られる光景だ。
記事はおそらく議論を喚起する目的で書かれているのだと思う。だがそもそも日本人は議論が嫌いだ。おそらく社会主義的に作られた日本の医療はメニューの中から半ば当てずっぽうで薬を処方するという状態になっているのだろう。機械の中身はよくわからないからという理由で適当にボタンを押して「あれこれは機能していないようだ」とか「あれこれはなんか聞いているようだ」というあやふやな状態である。当然効く人も出てくるし効かない人も出てくる。
それを傍で見ている親は「医療とはそんなものか」と疑問を抱く。疑問を口に出さない人もいるし出してみる人もいる。だが誰も答えを持っていない。これが不機嫌さの正体だろう。
患者側には専門知識がなくこの状態を改善できない。改善できないまま不信感を募らせているのだから患者に責任はない。一方で医師はこれをなんとかできる立場にいるのだが何もしようとしない。とりあえず右から左に患者をさばいていれば生活はできるからである。放置している医師の方に原因があるのだが出来上がった枠組みに疑問を挟むことはない。単に不機嫌になり「訴えられるもんなら訴えてみろ」と被害者意識を募らせる。
問題解決をするべき立場にいるはずなのだが被害者意識を募らせてゆき「悪いのは全て患者のせいだ」と一見合理的に見える被害者意識に立てこもるようになるのである。
話し合いによる問題解決ができなくなった社会というものがいかに不幸なのかがわかる。
そうこうしている今日も多くの会社員が抗鬱剤を処方されて会社に向かい、多くの子供たちが副作用がよくわからない薬を飲まされて未来を潰されている。彼らはいつ終わるかわからない無為な日々を薬によってなんとかやり過ごしているのである。