ドミノピザに見る日本の生産性が上がらないわけ

昨日はドミノピザの騒動について観察した。クリスマスの珍事であり特に問題ではないように思える。だが詳しく見て行くと日本の生産性が上がらない理由が凝縮されているように思えた。下記詳しく分析したい。

無責任な本部

ドミノピザはアメリカの会社でありオペレーションもアメリカ式だと考えられる。つまり最初の要因は日本固有のものではなさそうだ。本社は支店を休ませずに働かせるという傾向があり、来た注文は全て受けてしまう。しかしながら無理な注文は支店の責任でキャンセル処理をさせる。当然損がでるわけだがそれを支店の過失として処理するのではないかと考えられる。ジャーナリストであればこの辺りが調査の要点になるだろう。

同じような構造はコンビニに見られる。売損じの機会を少なくするために24時間営業しているが、人の手当ては「店の責任」だと考えられ、売り上げが落ちれば店主が責任を取る(たいていは契約解除になるそうだ)ことになっている。本部はこうして高い収益を確保するわけである。

真面目すぎる現場

一方で支部は真面目すぎる。彼らは並んで捌ききれなくなった客に「キャンセルしてくれればお客様に請求が行かない」ということを伝えなかった。また、注文がわからないから高いピザを我慢して持って行ってくれとも言わなかった。もしピザの種類が少なければ効率的に裁くことができただろう。

これは支店に権限がないことから起こる問題である。日本人は「言われたことを黙ってやる」ことが美徳だと考えている。これが生産性の向上を妨げている。「現場の工夫」はペナルティの対象になりかねない。

これも実は日本の伝統ではなかった。トヨタは現場の工夫を職場全体で共有する改善方式で有名だった。つまり製造業の成功の仕組みがサービス業には受け入れられなかったことになる。

もしアメリカであれば「できないことはできない」として生産性が著しく下がるだろう。ところが日本人はまじめなので「現場で何とかしよう」とする。そこで同僚をカバーして慣れないことをやるというオーバーヘッドが生じる。これが蓄積するとシステムダウンが起こるが、たいていは現場を疲弊させるだけで済んでしまう。

こうした疲弊を見つけるのは難しくない。自分が受けた仕事はなんとしてでもこなそうとするので、家に持ち帰って仕事をしたり、タイムカードを押してからこっそり居残り残業をするということが起こるわけである。余暇や回復時間を削っているのだから生産性が上がらなくても当然だ。だが、近視眼的に目の前の仕事をこなすことだけに集中するので、全体的なことが考えられなくなってしまうのだ。

高いサービスレベルを要求する客

最後の問題は高いサービスレベルを要求する客だ。ドミノピザの客は「この時間にピザが受け取れる」という時間から1時間以上待っても「もういいや」とは言わなかった。ピザができるまで待ち続けたのである。当然「キャンセル料を恐れた」ということは考えられるわけだが、それ以上に「頼んだから食べられて当然だ」という気持ちもあったのだろう。普通の感覚では客の離反が起こるはずなのだが、それは起こらない。だから当然本部はなにもしないので、現場に恒常的な負荷がかかることになる。

また現場も「安い金でまともなピザが食べられるはずはないだろう」などとは言わない。アメリカのファストフードではまともな待遇は受けられないが、誰も気にしない。よい処遇を受けるための選択肢としてレストランがあるからだ。だが、日本人は真面目なので笑顔で接客しようとする。

タダ乗りされる社会インフラ

ここでまで見られた構図はしわ寄せが「いい人」のところに行ってしまうということだ。つまり一番損をするのは真面目に働いている現場の職員たちだということになる。ドミノピザでは店員が泣きながらピザを焼いていたそうだ。だがこれらは企業内の問題である。

だが、問題はそれだけではない。ドミノピザの場合は周辺の道路に路上駐車が蔓延したそうだ。客は安いピザを求めているわけだからお金を払って駐車をするはずはない。もともとデリバリーが基本になっているが「ちょっとした路上駐車」を黙認することでピザを半額にして人件費を削ろうとした。つまり、路上スペースが企業にタダ乗りされたのだ。

社会インフラのタダ乗りはいろいろなところで起きている。例えば、企業が福利厚生として提供すべき子育てなども社会にタダ乗りされている。いわゆる共有地荒らしが横行しているのである。共有地荒らしが問題にならないのは、共有地を管理するという感覚を持った日本人が減ったからだろう。政治が消費型になり受益者としての感覚しか持たなくなってしまったことになる。もともと日本人は共有地を厳しく管理しており、これも実は伝統の消失なのだ。

日本人は生活保護バッシングなどには熱心だがこれは「俺が貰えるべきだった金をあいつが受け取るのは許せない」という歪んだ感情に基づいている。共有地の維持はコミュニティの持続可能性に基づいた感覚だから、社会的議論が歪むのも致し方ないところではある。

問題は政治家ですら共有地に興味を持たなくなっているという点にあるかもしれない。統治するという感覚を失ってしまったからなのだろう。

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