カルロス・ゴーン被告の会見がレバノンのベイルートで行われた。この会見には朝日新聞・小学館・テレビ東京は入れたようだが、フジテレビはアクセスできなかったそうだ。安藤さんが興奮気味に自分たちが排除されたことを憤っていたのが印象的だった。
会見自体はゴーン被告の独演会に終わり大した証拠は示されなかったようだ。広報が情報をコントロールしているようである。日本では広報は嫌われるのだがフランスやレバノンという国では自分の言い分をしっかりアピールする広報が否定的には捉えられていないことがわかる。今後は広報が情報の出し方を含めて広報が選別的にメディアを選ぶことになるのだろう。彼らが説明するのは「why」ゴーン被告が正当かということである。そのwhyのさきに結論がある。
日本人はこれが面白くない。疑われているということは黒なのであり徹底的に断罪されるべきと考えるからだ。日本人なら甘んじて受け入れてしまうその断罪にゴーン被告は耐えられなかった。
一方、締め出されたフジテレビだが普段から明らかに広報をやっている人を「ジャーナリスト」として番組に出演させている。これはフジテレビだけでなくどこのテレビ局でもやっていることである。日本では結論が先にありその結論にあった人を呼んできて集団の思い込みを代弁させる。
つまり、西洋と日本では思考形式が全く逆になっている。アカウンタビリティと日本人が考える説明は矢印の向きが逆なのだ。
締め出された安藤優子さんはフランスの記者に逆取材されていた。フランスの記者が聞きたかったのは理由付けである。つまりフランス人はwhyが聞きたい。ところが安藤さんはそれに全く応えられなかった。最終的に「箱に入って逃げたのどう思いますか?」と言っていた。フランス人は「それはまだ確かではない」と一刀両断だった。そもそもそれが本当なのかを確かめるのがジャーナリズムなのだが、安藤さんはそれに気がつかない。「あの人は怪しい」というゴールが先にあるからだ。
日本人はすでに結論が決まっている。一方フランス人はプロセスを埋めて行き結論が決めたい。全く逆なのである。ゴーン被告はこの「決めつけから集団バッシング」という日本式のやり方から逃げ出したのだろう。
ところがこれは安藤さんだけの問題ではなかったようである。森雅子法務大臣がとんでもない発言をした。「被告が無罪であることを証明しなければならない」というのである。のちに言い間違いと釈明しているが、当初この「推定有罪発言」はノーチェックで放送されたそうだ。つまり日本のマスコミは推定無罪原則を「単なる建前」としか思っていないことになる。知識としては知っているがそれが当然のこととは考えていないのだ。
もちろんゴーン被告が日本の法律を破って国外逃亡したのはいけないことなのだが、この結論ありきで追い詰めて行く異常な日本のやり方から逃げたのだと説明されると「ああそうかな」と思ってしまう。森法務大臣は、絶望的なことにこれを英語でも発信してしまっている。
Most of his comments were abstract, baseless assertions, but since they could spread false recognition around the world I rebutted his argument last night. Today I answered questions, regarding criticism from defendant #CarlosGhosn in addition to what I stated last night. pic.twitter.com/DxyOSLq4qt
— 森まさこ Masako MORI (@morimasakosangi) January 9, 2020
日本の司法システムが疑問にさらされているのだから森大臣はなぜ日本のシステムが公平でそれをどう担保するかを説明しなければならない。だが森大臣はhowとwhyが言えないのだ。公平に決まっているという結論が先にありそこから理屈を組み立てる。西洋とあべこべなのである。
もちろんそれが悪いとは言わない。日本では成り立つ理屈である。だがこれを海外でも成立させることはできない。欧米式ではプロセスが重要だからだ。
日本人は政府や大企業などが間違っていないということを確認するために「大本営発表」が聞きたい。だから結論が先にある思考形式を好む。認知的不協和を「公正さを装った偏り」によって補正してもらいたいと感じるのである。マスコミが騙しているというよりは日本人は騙されたがっているとも言える。
今回は「ゴーン被告に広報戦略で負ける可能性がある」と言っているマスコミが多い。「英語が不得手だから」という人もいる。ところが問題点は物量や英語力にあるのではない。ジャーナリストの安藤さんは英語が堪能であり伝達のプロでもある。森大臣は弁護士なので法律知識があり英語に堪能なスタッフを抱える。それでも説明ができない。それはそもそも説明するつもりがないからだ。
この「プロセスが話せない病」で思い出したのが小泉進次郎環境大臣の頓珍漢な会話がである。二酸化炭素排出を減らすべきという発言に対して出席者がhowと聞き、reduce itと答えたという話である。会議の席でいい顔をしたかったのはわかる。当然「減らすべき」と言った方がみんなの納得感は得やすい。だが、大臣に求められていたのは具体的なプロセスである。日本人は英語が堪能でもこれができない。英語ができないから外国に誤解されているわけではなく、思考プロセスに問題を抱えているのである。
日本は集団を作って芸能人を追い込むことがある。この時「公平」とか「報道の自由」とか「視聴者の知る権利」などの建前を使うのだが、要するに結論は決まっているからメディアにリンチさせろということである。普段からそれを報道と考えるフジテレビは会見から排除されても当然だったのである。
森法務大臣が「言い間違えた」と取り繕ったように、多くの日本人は自分たちの何が誤解されているのかを気にしないままで「誤解されている」と叫び「排除された」と被害者意識を募らせるのだろう。在外経験があり英語に堪能な人にまでそうした被害者意識が広がっているところにこの病の根深さを感じる。
“カルロス・ゴーン被告の会見から締め出された安藤優子さんの怒りと日本の病” への1件の返信