オリンピックに旭日旗を持ち込んでいいかという議論があり、結局持ち込んでいいということになったようだ。この議論を突き詰めてゆくと民主主義の限界が見えてしまう。その帰結はまともな人間の退出である。一度歪んだ民主主義はまともな人を離反させ、ますますすさんでしまう。では誰が何の目的で民主主義を破壊するのだろうか。
はっきりさせておかなければならないのは、旭日旗そのものは意匠(デザイン)でしかないということだ。これは事実なので議論ができる。だがここに意味づけが加わると議論ができなくなる。何にどのような意味を持たせるかは人によって異なるからである。そして意味づけされた意匠から意味を取り外すことはできない。我々は十字架を見るとキリスト教を連想してしまう。そしてその記憶を消すことはできない。
健全な民主主義の智恵はこうした「意味づけ」を公共に持ち込まないことで内心の議論を避けてきた。特に人種・宗教・言語などが異なるヨーロッパでこれを始めてしまうとヨーロッパはたちまち内乱状態になるだろう。日韓は幸か不幸か海峡を隔てているのでいつまでも不毛な争いを続けることができる。
さらに問題をややこしくしているのは日本の本音ロジックと建前ロジックである。使いたい側は「これが嫌がらせに使える」と知っているから使いたがるのである。単におめでたい図柄ならばそれに固執することはないだろう。おめでたい図柄が好きなら鶴と亀の旗を振っても良い。だが右翼が鶴亀旗に固執しているという話は聞かない。
彼らが旭日旗を持ちこみたがるのはそれを韓国人が嫌がっていると知っているからだ。つまり彼らが嫌がる顔が見たいので「多数決で」「旭日旗は単なる意匠である」という表向きのロジックを振りかざし、同時に「旭日旗を多数決で採用する」ことで少数者を圧迫するという本音ロジックを実現するという二段構えになっている。苦しむ少数者がいる時だけ、彼らは正義の中間層だと実感できる。
民主主義はそうやって死ぬのだ。
AERAに小島慶子さんが書いている文章を読むと、今回の場合「韓国側(文化体育観光委員会)」が旭日旗は日本の圧政のシンボルであるというロジックを国際合意にしようとしたので「対抗上」日本はそれが問題ないとみなしたという経緯があるようだ。つまり、相手方もそもそもこれを嫌がらせの旗として使いたい。これでは議論が終わるはずはない。議論そのものが「勝負」という意味を帯びている。
オリンピックを放送する人たちは旭日旗を画角に入れるのを避けるはずだ。特定の国で映像が売れなくなってしまうからである。だが、会場全体が旭日旗で埋め尽くされたらどうなるか。テレビの放映権料というビジネスの種が高値で売れなくなる。そして一般の日本人は「面倒なことに関わりたくない」と考えてオリンピックから逃げてしまうだろう。
背景にあるだろうと思われるのが「失われた中間層」の存在である。日本はかつては終身雇用があり中間層はシステムの受益者として満足感と見通しを得ることができた。ところが現在の中間層にはかつてのような約束された将来はない。それを誰かのせいにしたいと考えても不思議ではない。韓国の反発など実はどうでもいいことで、単に自分たちの不満をぶつけたいだけなのだ。彼らは苦しむ少数の在日の人たちを見て自分たちはまだこの国の主役であるということを確認したい。そしてその裏では厄介ごとに関わりたくない人たちの退出が起こる。
ヨーロッパで盛んなサッカー(フットボール)にもこうした危険があり、政治的な要素や人種差別的な要素は注意深く取り除かれてきた。日本のオリンピックは不注意にも政治を持ち込んだことで失われた中間層が活躍するアリーナになるだろう。それはオリンピックを確実に破壊する。橋本聖子五輪担当大臣はオリンピックを破壊しかねないきっかけを作ったが、彼女がそれに気がつくことはなさそうだ。
普通の日本人はそれほど政治には興味がないが、失われた中間層は政治に並々ならぬ関心を持っているという点である。参加動機が切実なぶん「発言する民主主義」では勝ってしまう可能性が高い。そうなると普通の政治意欲を持っていた人たちは政治議論から退出する。身の危険を感じる上に見ていて辛いからである。そして「政治の話をするなというのは本当だったんだなあ」と感じるだろう。
サッカーは政治を排除することで商品価値を保っている。オリンピックはそれに失敗するかもしれない。では、政治議論が政治的闘争を排除しないことで生じるコストはどのようなものなおだろうか。
例えば、政治についてニュートラルに見ようと考えたのが池上彰的解説だったと思うのだが、それすらも局の見解や周囲の攻撃にさらされた。しかし、それでも池上彰的解説がなければ我々はスンニとシーアといった基本的なこともわからずただただ混乱しているだけに見える中東情勢を眺めていたはずである。つまり直接的な影響は不安がコストということになる。
だが、その裏では政治・公共分野にまともな人が関わらなくなるというもっと大きな問題がある。そのコストは例えば東京電力の停電復旧の遅れなどに現れている。失われた数十年に引きこもってきた日本人は問題が起きても協力ができない。そもそもどうやって協力していいかがわからなくなっているからだ。
日本は変化を遅らせてきたので欧米のように二極化した政治論争は起きなかった。その日本でもニュートラルなはずの池上解説が攻撃され、政治とは無縁だったはずのオリンピックが政治闘争の場になろうとしている。1年後に迫ったオリンピックで旭日旗がどれくらいテレビに写り込むのかは誰にもわからない。あるいはかなりひどいことになっているのかもしれない。