社会生態学者の安冨歩教授がLGBTの人が体験する差別について書いている。なるほどなと思わせるところもあるが、納得できないところもある。安冨さんは、男性っぽい女性は「美しい女性」だとされるが、女性っぽい男性は「美しい男性」だとは見なされないと主張している。
これは、明らかに間違っている。特に日本にはジャニーズがある。背が低く幼形の男性の方が好まれるのだ。これは男性が幼い前田敦子をセンターに据えるのに似ている。日本人は幼形が好きなのだ。ジャニーズの世界で背が高くなるということは「センターを外される」ことを意味しているし、ましてや筋肉を付けたりひげを生やしたりして男性らしさを強調することも実質的に許されていない。その典型が木村拓哉である。彼は「木村拓哉という牢獄」に入っているのだ。
美人という枠について言及されているので一部言い当てているとは思うのだが、正常な男性が「<暴力>の中に住んでいない」という認識は必ずしも正しくない。
最近フジテレビが夕方のニュースはイケメンを起用し始めた。月替わり・日替わりでイケメンが出てくる。男性の「Objectification」だ。この中で男性は知的であることが要求されない。彼らは癒しであり知性が低いことが暗黙のうちに求められている。ひどい言い方だが「愛玩の対象」として置かれているのだ。
これが顕著になるのが伊藤利尋アナ(キャスターというのか)の不在だ。伊藤アナがいなくなると美男美女ばかりになるので、イケメンいじりがなくなるのである。だが、伊藤アナが入ると状況が一変する。非美形の伊藤アナがイケメンの知性を制限するように誘導するのである。
これは日本テレビの夕方のニュースとは違っている。こちらはジャニーズのタレントがキャスターとして置かれているのだが、アナウンサーレベルの話し方と取材能力が求められており、時間的なコミットもあるようである。
フジテレビのニュースに木村拓也というきれいな顔のアナウンサーが出てくる。外回りでお天気を読むアナウンサーだ。アナウンサーなので「知的枠」のはずなのだが、イケメン枠だとされている。ここでキャラの問題が出てきた。伊藤アナが熊本に出張した穴を埋めたのだが「普段はイケメン枠なのに知的枠のキャスターとして座らなければならない」ことになったのだ。結果、木村アナは「二重人格」になりキャラが破綻した。結局、外回りに戻されたようだ。
安冨さんは「テレビは劣等感を植え付ける装置だ」と書いてあるのだが、これは間違っているのかもしれない。つまり、劣等感を持っているはずの人が、美しい人たちを鑑賞の対象にして閉じ込めているのかもしれないのだ。すると文中のマツコ・デラックスさんの立ち位置が違ってくる。マツコさんは美しい男性を「対象物化」するために置かれていることになる。抑圧する側の人(しかも女性)の代表だという構図になってしまう。あれは、容姿から解放された女性の姿なのだということになるわけだ。
安冨さんが「気持ち悪く」見えるのだとすれば(ご本人を見たことがないのでなんとも言えないのだが)、それはスタイルが獲得できていないからだけなのかもしれない。例えばIkkoさんを見て「気味が悪い」という女性はおらず、女性のお手本になっている。Ikkoさんを見て感激のあまり泣き出してしまう女性すらいるのだ。りゅうちぇるも同じである。化粧をしているが「病気か趣味か」と聞かれることはないだろう。スタイルさえ決まってしまえば、人は意外と気にしないのだ。
ユーザーとしての安冨さんにスタイルを獲得しろと求めるのは無理があるかもしれない。重要なことはここに空白のマーケットがありそうだということであり、デザイナーの需要があるということだ。問題の本質は、意外と「たんに、才能のあるデザイナーがいないだけ」なのかもしれない。