これまで日本人はプロセスを気にせず結果だけをありがたがるというよう話を書いている。このため一旦できた正解を動かせず「正解に縛られるだろう」と分析した。そうなると「じゃあ日本人以外はそうならないのか」という疑問が生まれる。アメリカの事例を考えたい。
アメリカ人と政治というと「民主主義という原理原則にこだわりがある」という印象がある。また、規範に対して説明的でもある。彼らはとても真面目でアメリカ的な価値観二こだわる。ただ、これはかなり概念的で一般的な話である。彼らは日常の細かい問題にどう対応しているのだろうか。
最近AppleTVでABCニュースのストリーミングを流している。こうするとなんとなくテレビのように扱える。ある時間帯にドッキリ番組をやっていた。What you would do?という番組だそうだ。
日本のドッキリ番組とかなり様子が違っている。まず女性二人組の役者をダイナーに登場させて、一人が「48歳になって家族が欲しい」と切り出すのだが友達が「そんなのは危険だから絶対にやめろ」と叫ぶ。すると妊婦役の女優が「でも私は産みたい」といって口論になるというのが仕掛けである。
次に妊婦役の女性が夫役の男性と口論をするところを流す。ここでも夫は「そろそろ引退後の心配をしなければならないのだ。学費はどうする。」と口論になる。男性は立ち去り女性はがっかりする。
さて、ここで周囲の人はどうするだろうか。たいていの人は何も言わないようだが、何人かは女性を慰める側に回るのである。この時彼らはどうやって慰めるのかを聞いていたのだが、日本とは違う特徴がある。日本だと「正解」を口にすると思うのだが、彼らは自分の共感や経験を元に慰めることが多い。
ある女性は「口をはさまなくても良かったはずだが」というインタビューアーの質問に対して「私もある程度の年齢になっている」からだと言っていた。彼女には子供がいるが女性の気持ちがわかるというのである。別の男性は誇らしげに「年を取ってから子供ができた」と言ってスマホにある写真を見せていた。
日本との違いがいくつかわかる。
- 彼らは他人の問題に割って入ることがある。
- 彼らは社会の正解ではなく自分自身の感情や経験をシェアする。
もちろん日本とアメリカのどちらが正しいというわけではないのだが、アメリカのやり方のほうが単純である。もちろんアメリカ人にも周囲の承認が欲しいという気持ちがあるのだが、同時に「個人の選択」も重要である。その個人の感情や経験をシェアするところに連帯が生まれるのだ。賛成してくれる人もいれば賛成でない人もいるという「正解のない」社会で最終的に決めて責任を取るのはその人自身なのだという個人主義的な背景がある。
アメリカは個人主義の社会なので社会の正解が「個人の決定」で決まる。そしてそれをシェアすることによって広げてゆくという社会である。だから状況に合わない正解は淘汰されて行き最終的に変化する。一方、日本はかつては集団性の強い社会であり社会の正解は最初から決まっていた。だから個人がそこにアクセスして変えることができなかった。おそらく今は集団が壊れてしまいルールが無意味化しているのに外形的なルールだけが残り変えられなくなっているのだろう。
現在の日本は完全な集団主義でも個人主義でもない。このため集団に依存した安心感も得られないし、かといって個人が個人の考えを認め合って新しい規範を作ることもできないのだと思われる。
昔のように集団の規範がはっきりとしていれば個人は何も考える必要はなかった。だが終身雇用にせよ地域共同体にせよそれを焼き払ったのは我々自身である。
すでに茶道の例で見たように、規範が形骸化すると「当初の理由付け」は失われ、権威にフリーライドする人たちが曖昧な「合理的説明」を振りかざすようになっている。もともとルールは社会や集団を安定化させたり、学習をしやすくするために寄与していたはずだが、形骸化したルールにはもはやそのような機能はない。単に変化を拒絶するだけである。
おそらく日本で同じようなことをやっても日本人は「顔出しでは」意見は言わないだろう。だが顔が出なくなった匿名の状態では「40過ぎて子供が欲しいとは身の程を知れ」とか「わがままである」というような口汚ないコメントで溢れかえるに違いない。おそらく「そんなことは聞いたことがないから不可能だし考えるだけでも不愉快だ」という気持ちになるからだろう。
日本人は個人主義的に意見をまとめたりシェアしたりする方法論を持たない。そもそも個人の意見は考慮されないし理解もされない。自分も他人の話を聞かなくても済むが、他人からも理解されないという社会である。だが今の日本人には「日本人には戻るべき村はない」。つまり拠り所になる規範はもはやないのである。
ルールや規範が無意味化しているからこそ、新しい選択を模索する人たちは貶められ、権威化に使われたり相手を口汚く罵る人たちだけが増えてゆくのではないかと思う。おそらく私たちの社会を縛っているのは我々自身なのである。