なぜオタクはTwitterでドヤ顔をするのか

2016/10/14: 記事全体を削除しろという要請がありましたが、引用していたTweetのみを削除して全体を遂行しなおしました。


今日の問題はこのツイートから考えたい。

オタクはどうして毎日ツイッターしてるだけの自分の意見が正しいと思えるのだろうか。

このツイートには面白い問題がいくつも隠れていると思う。

日本人は「普通の人」は意見をいうべきではないと考えている。例えば、生徒は教師のいうことを黙って聞くべきだ。

次に意見表明に「正しい」という言葉が使われている。英語でRightという言葉を多用すると、皮肉まじりの反応が返ってくることがある。多様性が前提にあるので「何が正しいか」は受け手が最終的に判断するという意識が強いからではないかと思われる。だが、日本ではそもそも何かを言うということは特権であり言われたことは拝聴しなければならないという強い意識が働く。つまり発言権があるということは正解を決める権利があるということと同じ意味なのだ。

するとこのツイートが持っている意識が分析できる。ピア(同僚)か目下(このツイートでは毎日ツイッターしているだけのヒマなおたくという言葉が使われている)が意見表明するなどということはあってはならないという意識があるのではないだろうか。

なぜ、それはあってはならないことなのだろうか。例えば、表明された意見が空気のように場を支配するからという仮説は立てられる。だから誰かが何かをいうのを牽制しなければならないという意識が働くのかもしれない。

居酒屋談義には「物を言わない」階層の人たちが集まる。上司の愚痴を言っても「プレゼンして社長に掛け合おう」というような結論にはならない。毎日集まって「他のメンバーがなにも言わない」ように監視し合っているという見方もできる。意見表明せずに相手を探りながら空気を醸成しようとするところに要点があるのかもしれない。リーダーシップは重荷なので、半匿名で発言するのだ。

なぜ日本人が「リーダーシップ」を嫌うのか。「決める政治家」には必ずアンチが現れる。安倍晋三、橋下徹、舛添要一郎などが思い浮かぶ。一方強いリーダーに見えても利権を調整しているだけの石原元都知事はそれほど嫌われなかった。そしてアンチの考える「責任」は「視界からいなくなる」ことを指している。日本人は巧みに個人による意思決定を避けているのだ。

一方で、最初のツイートの「普段の仕事に埋没すべきで、意見表明はするな」というのは、明らかな同調圧力だ。意見表明と意思決定は特権のある人たちだけの特別な行為であり、市井の人間は黙っ手だけ動かすべきという意識がありそうだ。だが、それはピアだけでなくリーダーにも及ぶ。そもそも特権的なリーダーは許容されないのかもしれない。

相手に意見を伝えて尊重されたいというのは間違った感情ではないが、自分がまとまった考えを主張できないからといって相手の口を封じるのは間違っている。先日ツイッターで野口悠紀雄が口述筆記を紹介していた。歩いているときにスマホに話かけると文章になって残るという技術があるそうだ。自分の考えをまとめて伝えることができるようになれば、とにかく相手の口を封じてやろうという風潮はなくなるのかもしれない。

ここで「日本人」という言葉が多用されているので反発心を持った人もいるかもしれないが、「先生が一人でしゃべる」という方式はアメリカでは見られない。もちろん教壇は尊重されるのだが、ディスカッション形式の授業も多い。他の国はどうかはわからないが、蓮舫氏を見ていると中華圏でも自分の主張をはっきり伝えるという教育が浸透しているのではないかと思える。学校は一貫して青山学院なのだそうだが、台湾のエリート層には意見形成の教育があるのかもしれない。

先生が一括して教えるというやり方には「正解を効率よく教えることができる」という捨てがたいメリットがある。かつての寺子屋には職業別の手習い本がありその職業に必要な知識と漢字だけを教わるというシステムがあったそうである。このために江戸時代の識字率は高かったそうだ。

日本は世界に類を見ない高齢化社会になったのだから「正解はない」ということ自覚して、社会全体で正解を探る方法を学ぶのはとても重要なのではないだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です