Twitterで「日本がIWCを脱退したので海外から批判が集まりオリンピックが大失敗するだろう」というTweetを複数見かけた。一方、Quoraでは実際に捕鯨に対する反感が集まっており日本人に「なぜ日本人はクジラを殺すのか」という質問がぶつけられているので「日本語でちまちまとTweetするなら英語で反論してほしい」というようなことを書いて引用Tweetした。
実際には「日本人がクジラを食べたがっているわけではなく、安倍さんと二階さんの地元だと説明してほしい」と書いた。すると「自民党政権を政権につけている日本人が非難されるだけだ」という反論が戻ってきた。
そんなこと書いても、なんで日本の有権者はそんな人に政治的パワーを与えてるの?と返されるのがオチだと思う。 https://t.co/W4vHIxnxZI
— kaz hagiwara(萩原 一彦) (@reservologic) 2018年12月31日
この返答を見ていつかのことがわかった。まず日本人が世間とか世界を持ち出すとき実際に気にしているのは村の上下関係であって、村の外には実はあまり関心がないということだ。だが、それはすでに観察済みであってそれほど目新しいことはない。
この人は過去Tweetを見ると反自民党系の人らしい。アメリカ人に実際に説得してこういう答えが返ってきたのでなければアメリカ人がどう反応するのかは知らないはずだ。ということは、どこかから既知の「でもみんなが自民党を支持している」という答えを持ってきたはずである。つまり、普段からネトウヨに言われていることを気にしており、自分でもそう思っているのだろう。
日本のリベラルは自民党政権には勝てない。何を言っても「実は俺たちが何を言ってもみんなは賛成してくれない」と信じ込んでしまっているからだ。
前回「韓国が居丈高に対応するのは実は日本が怖いからではないか」と書いた。同じことが日本のリベラルにもいえる。つまりリベラルはすでに議論に負けているという自覚があるからより強い主張を繰り返すことになるのだろう。止まった瞬間に「自分が間違っていること」を認めてしまうことになる。
ただ、今回のリアクションを「リベラルの負け犬の遠吠え」と揶揄するつもりはない。自民党の支持者たちも2009年には同じようなメンタリティを持っていた。彼らは自分たちのどこが間違っていたのかと内省することはなく、公共工事にも良いものがあると言いつのり、天賦人権のために自分たちは政権を追われたと被害者意識を募らせてあのひどい憲法草案を作った。リベラルも「なぜ自分たちは支持されなくなったのか」と反省することなく被害者意識を募らせることになるだろう。
鬱積した気持ちという意味では韓国の「恨(ハン)」に近いのだが、日本の場合はこれが上から目線で語られる。自民党支持者は、今度はアメリカと戦争すれば負けないと思い、憲法という大きなルールを支配すれば勝てると信じる。民主党支持者は民主主義という正解にこだわる。これが負けた側の鬱積した感情を素直に表現する韓国人と大きく違っているところである。日本人は自分こそが本物の権威とつながっているという水戸黄門幻想を持っているのである。
日本人にせよ韓国人にせよ「上下関係」や「多数決」を気にする。みんなの意見が自分の意見より強い「集団主義的な」社会だからだ。自分たちの考える正義が空気に負けた時に屈折した感情として恨が生まれるのだ。だが、アメリカ人はそうではない。自分の意見や立場を伝えることが大切な社会である。そして「アメリカ人みんな」は存在しないから、言ってみないとどんな反応があるかはわからない。
実際にQuoraで「日本人がクジラを食べたがっているわけではない」などと言ってもそれにUpvote(いいね)がつくことはない。なぜならば質問をしてくるアメリカ人はもともと反捕鯨に関心がある人たちだからである。一方、アメリカ人がみんな日本人に反発しているわけでもない。人によって関心ごとが違うのだ。
反捕鯨の人たちが「日本人全体」を主語にしている間、彼らは日本全体を説得しようとするだろう。しかし、誰が原因なのかがわかればそれなりに対応するはずであり、どう行動するかは彼らの問題である。「私を捕鯨問題で説得しても仕方がないですよ」と説明することだけがこちら側の責任である。
トランプ政権で入管施設で子供が複数人亡くなっている。これに反発する人は多いだろうが、だからといってアメリカ人全体が移民の子供を殺したがっていると考える日本人はあまりいないだろう。つまり「アメリカ人全体がトランプ大統領のやっていることを全て承認している」とは思わないはずなのだ。しかし、もし仮にアメリカが日本の人権状況に文句をつけてきたら「アメリカだってこんな残酷なことをしている」と言い出すはずである。
ここからもう一つ面白いことがわかる。日本人は「自分が何かやりたくないこと」があるか、自分がやっていることに介入されて不快になると、「どうせそんなことは無駄だ」と言ったり、意見ではなく人格を否定する。「その人のいうことを聞かなくても構わない」ということを証明しようとするのである。これは、その人の人格を認めてしまうとそれは空気の一部になり「従わなければならない」と重荷に感じてしまうからだろう。つまり、人格と意見が不可分であり「人それぞれにいろいろな考え方がある」ということが理解できない上に、普段からやらない理由を探しているのである。それだけ自分の意思決定権に強いこだわりがあるのだ。
日本や韓国ではどうやら集団の雰囲気が個人の意見に大きな影響を与えているようだということがわかる。だが、言動ではなくちょっとしたリアクションを通して集団に対する恐れが時折ほの見えるだけで普段は全く意識されていない。
アメリカは自分の意見を表明し相手を説得しようとする社会である。だから合意された空気よりも合意形成のための意思決定プロセスを知りたがる。このため欧米型の異文化コミュニケーションの本は「意思決定プロセス」に強い関心がある。一方で他人の目を気にする日本人は世界で認められている日本に関心があり「日本人論」を書きたがる。最近Quoraで日本人は中国人のことをどう思っているのかということを聞かれることが増えた。その意味では他人の目を気にして承認されたがる文化は東洋に広がっているのではないかと思う。
自分の意見を述べることに慣れているアメリカ人はその人が何を言っているのかがわかれば何を目標にしているのかがわかる。しかし、集団の空気を読んで自分の意見を屈折させてしまう東洋的な人たちの政治的な意見は主張だけを聞いていても、彼らが何を気にしているのかが実はよくわからない。だから「リアクション」を観察することが重要なのである。