「ちょいワルオヤジ」という言葉を作って一世を風靡した岸田一郎という人が「ちょいワルジジ」という言葉で炎上した。
特に悪質とされたのは、美術館でうんちくを行って女性を口説こうという提案である。美術館に対しての尊敬の念はなく、ちょこっとwikipediaで調べた知識があれば女性を感心させることができるという薄っぺらい洞察の裏には、人文科学に対する軽蔑心が見て取れる。芸術家が一生をかけて築き上げたものを単なる高級時計のようにしか捉えられないのだろう。
ちょいワルジジというコンセプトは実は安倍政治との共通点も多い。
安倍首相といえば、人文科学は不要という政策を掲げており大学の予算を削減している。「もっと役に立つことを教えるべきだ」というのだが、彼ら政治家の口から成熟して行く国で何が必要とされているかというビジョンが語られることはないだろう。せいぜい、軍隊を持って強い国になれば世界から尊敬されるだろうというような浅はかな見込みが語られるだけである。新しい獣医学部を作りたいなどというが、教育を第二の公共事業として利権をむさぼるための道具として利用しているだけだ。徹底的な智への反逆心が感じられる。「美術館くらいすぐに理解できる」というのと同じように「獣医学部なんて簡単に作れる」と感じているのだろう。
社会が成熟して行く過程で人々はより良い何かを追い求めるようになる。例えば単なる繊維産業だったファッションも、個性の発露や相互コミュニケーションのような役割を纏う。実は人は成長の過程で文化への欲求を持ち、それをうまく利用すると産業に価値を創出する。
しかし、岸田さんにとってファッションとは単なるお金もちを示す標識にしか過ぎないようだ。だからイタリアブランドの職人のこだわりなどを表面的に勉強しただけで、女の人たちを驚嘆させられるという単純な思考を何年も保持していられるのだろう。
もともと岸田さんが高齢者層に目を向けたのはマーケティング的な動機があるのだと思う。が何が彼らを動かすかわからないので、そのために女性を利用しようという魂胆が透けて見える。つまり、芸術家が真摯に新しい境地を獲得しようとした過程も単なる道具なら、女性も高齢者にお金を使わせるための道具なのである。
女性は欲望を対象であり、優れた知識を持っている自分たちを賞賛する存在でなければならない。つまり女性は男性の人生の添え物なのだ。かつては「効果的だった」と感じる人も多いのかもしれないが、それは男性優位の終身雇用制度に守られており、女性より経済的に優位に立てていたからである。女性は「ああ、そんなこと知っているよ」と思いつつも、黙って話を聞いていただけかもしれない。経済的な理由もあるだろうし、せっかく得意になって話しているのだからプライドを傷つけてはならないという気持ちもあるのではないだろうか。
すべての男性は女性を道具としてしか見ていないという視線は実は同世代の男性にも失礼だ。
ユングは人間が成長する過程をモデル化し、個性化という概念を創出した。人は成長の過程でさまざまな挫折を経験するのだが、それを乗り越えて、それまで使ってこなかった不得意な側面をも統合させ、その人なりの成熟を目指すようになる。個性化が誰にでも起こるかどうかはわからないが、一つのことを追求してきた人にはそれなりの蓄積があるはずだ。もし、他人に(女性だけでなく)尊敬されるとしたら、そうした成熟を社会に還元することなのではないだろうか。
日本人は真面目な民族なので、個性化に成功した人も多いのではないかと思われる。が、企業社会以外にそれを活かせる場がまだまだ少ないのが現実である。こうした場を提供することこそ、メディアや政治の役割なのだが、文化に興味がなく、他人を自分の欲望を満たすための道具としてしか見ない人たちから、そうした提案が語られることはないだろう。
さらに、高齢者がお金を使えないのは、将来に漠然とした不安を持っているからだろう、性的に刺激してやればお金を使うようになるだろうというのは考え違いも甚だしい。
他人は利用されて当然だという考え方はいろいろなところに受け継がれ社会に害をなしている。
例えば、山口敬之というジャーナリストは、こうした欲望の系統を受け継いでいるのだろう。山口氏は女性を欲望の対象としてしか見ておらず、女性がキャリアを築きたいという気持ちを弄び自分の欲望の道具として利用した。だが、山口氏は一人ではない。それをかばっている検察や警察の人たちも「女もいい思いをしたんだろう」とか「それなりの狙いがあって近づいたんだろう」などと考えてしまう。彼らもまた、他人を自分の欲望を満たす道具としてしか見ておらず、キャリアを追求している女性の真摯な思いを二度も三度もふみにじり、社会的に殺してしまったのだ。
先進国が成熟して行くためには、一人ひとりの心地よさに目を向けて、それを製品化したり政策化するというプロセスが必要である。その芽は一人ひとりの心の中にしかないので、誠意を持って育ててゆくことが必要だし、他人が持っている芽を大切にすることも必要だ。が、美術館は女を口説く場所でしかないと考えるような人たちが跋扈しているおかげで、それが阻害されている。
美術館で新しい洞察を得ようとする人たちは老人にしつこくつきまとわれ、キャリアを構築しようとした女性は酩酊状態にさせられた上で欲望のはけ口にされる。そして、大学を出て成長したいと考える若者たちを「教育無償化」で釣り上げて憲法改正を実現しようとする。共通するのは、人々の成長の欲求を自らの欲望を満たすために利用するという考え方だ。
「ちょいワルジジ」にはそうしたグロテスクさが隠れており、それは今の政治と共通しているのではないだろうか。