ある信仰告白

リベラルとか左翼とかいろいろな呼び方があるのだが、あの界隈の人たちの運動が一つの転換期を迎えたと思った。#生活苦しいヤツは声あげろ というTwitterのタグだ。

これまでの左翼運動は「戦争」や「原発」などの穢れに対しての反対運動だった。根底には何らかの別の不満や不安があるのだが、あくまでも穢れが外部からやってくることに対する反対運動の形をとっていた。自分たちの問題だと考えたくなかったのだと思われる。

確かに「普通」を抜けることには抵抗がある。通常、それは脱落を意味するように思われるからだ。だが、そうした運動はクローゼットのなかから叫び声を挙げるようなもので、たいしたインパクトを与えない。自分の問題として認識してはじめて運動体として前進しはじめるのだ。

この動きを考えだしたのが誰だかは分からないが、現状への意義の申し立てだと考えることができる。

キリスト教社会では、こうした「異議の申し立て」を信仰告白という。もともとキリスト教は異端の宗教だったので、信者間以外で信仰告白がされることはなかった。後に信仰告白はローマ教会に対しての異議申し立てという意味合いを帯び、公然となされるようになった。信仰告白は宗教改革期に多く見られ、最終的に国際的な戦争に発展する。プロテスタント運動以前には信仰告白はなかったものと考えられる。「自分が信仰を選び取った」という認識がなかったわけだ。

イスラム教では「アラーの他に神はなく、ムハンマドはアラーの使徒である」というのが信仰告白になっている。証人2名の前で宣誓すると、共同体に迎え入れられるそうだ。キリスト教のような異議申し立てのという意味合いはなく、共同体のメンバーシップが強調される。

ともに、自分が特定の心情を持っているということを世間に向けて発表することを信仰告白と呼んでいる。それは心情なので厳密なファクト(事実)である必要はない。いずれにせよ「自分が選択したから信仰がある」という意識があることが重要だ。#生活苦しい……は何を告白しているのかというと「自分たちの暮らしはもっとよくなりうる」ということだろう。

そもそもこの運動がすぐさま教義を持ち得るかというのはかなり疑問だし、安倍政権が「生活を苦しくした」原因だとも思えない。だから過剰な意味付けはしたくないしかし、安倍政権が支持されているのは「日本人の生活が全体的に苦しくなりつつある」ということを否定したい人が多いからだと思われる。

しかし安倍政権を支持する人たちが信仰しているのは「私たちのくらしはこれ以上良くなりようがないし、我々には豊かになる資格はない」という世界観だ。異議申し立ては「良くする手段はあるはずだし、幸せになりたい」という宣言だということが言える。

21世紀の左翼運動は「現在の政権がうまく行っていない」ということを証明しようと長い時間を浪費した。世間に不調を認めさせてコンセンサスにしようとしたのだが、その度に「自己責任だ」と考える人たちに阻まれてきた。だが、そんなことは必要がなかった。「自分たちはそう考えている」というだけで十分だったのだ。

日本人はバブルが崩壊してから長い間、国として衰えて行くことは認めても、一人ひとりの暮らしが先細って行くことは認めてこなかった。現状認識を改めるのに一世代もかかったのだ。

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