DHCの会長が在日朝鮮人を屈辱するような言葉を使って炎上していると言うAFPのニュースをみた。問題になっているのは「使われている言葉」のようである。ネットで叩かれていると書かれていたのだが、実はこの問題を知らなかった。それくらい局所的な争いでありマーケティングにはさほど影響はなさそうだ。ただDHCの経営は大丈夫なのかなとは思った。
“DHCの会長が人種差別的発言をしてしまうのはどうしてか” の続きを読む問題行動を起こした虐待者にマウンティングする無慈悲な人たち
匿名のネトウヨが、仕事を失う危険を冒してまで嫌韓発言を繰り返す理由を考えている。調査のしようがないので別のモデルを探すことにした。たまたま、虐待についてアンテナにひっかかるものがいくつかあったのでこれを利用したい。虐待とネトウヨにはいっけん関係がなさそうだ。
先日、東ちづるという女優さんが虐待者を非難するツイートをしていた。「あ、これは危険だな」と思ったのだが、何が危険なのかは自分でもよくわからなかった。
東さんは「飴と鞭」という言い方をしていた。飴と鞭を取引概念として使っているように思えた。取引概念ということは相手がいるということになるのだが、これは危険な誤解である。東さんは自分の価値体系を他人に押し付けたままそれに気がついていないのである。リベラルな人たちによく見られる危険な態度だ。ちなみに虐待者が飴と鞭を使うのは「いい自分」と「悪い自分」の間を行き来しているからである。虐待者は虐待相手には興味がなく自分のことしか考えられないので「優しくする相手」とか「罰するべき相手」は存在しない。
別の日にテレビのワイドショーで犬の虐待について取り上げていた。これを見てこの虐待非難の危険性が一層よくわかった。問題行動者の非難は商業的価値があるのだ。つまり売れるのである。このワイドショーはネットに出回る無料動画を使って社会の敵を作りして企業広告を売っている。目的は社会の敵を作り出すことなので虐待そのものには興味がないのだが、まあそれがワイドショーというものなのでこれを非難するつもりはない。
ニュースショー出身の安藤優子さんはそのことを自覚しており、高橋克実さんは傍観している。だが、三田友梨佳という女性のアナウンサーは多分それがわかっていない。結果的に三田友梨佳さんは社会の側に立って「優しい自分」アピールをしてしまうのである。つまり、扇動者になってしまっているのだ。これがどれだけ危険なことなのか誰も教えてやらないのだ。
ワイドショーの目的は社会の連帯感を作り出して「その中に埋没する心地よさ」を提供することである。社会的ニーズがあり、それで広告が売れるのだから、これは第三者がとやかく言う問題ではない。だが違和感を和らげるために安藤優子さんというジャーナリストだった人を利用している。
問題行動者とされていた女性は「犬をどうしつけていいかわからない」と言っていた。これはかなり正直な内心の吐露だと思う。そして「私が躾けないと誰かを噛んで殺処分になってしまうかもしれないから私が躾けた」と自分なりの理論を展開していた。つまり犬というコントロールできないものを抱えてどうしていいかわからなくなっているということが明らかなのだ。
この人は自分の頭の中であるストーリーを「勝手に」組み立てている。一方で犬のことは全くわかっていない。というより頭の中に犬がいないのだ。だから「首輪を締め付けたら犬が死んでしまうかもしれない」ということや「犬がどうして好ましくない行動をとるのか」ということが基本的に想像できない。だからいくら「共感を持たない人間はダメですよね」と言ってみても、そもそも共感がどんなものなのかわからないのだから問題は解決しないのだ。
このビデオを撮影したのは息子なのだが、この母親が息子にどのような「しつけ」をしていたのかもわからない。だから息子は面白半分で撮影して虐待に加担したのか、あるいは社会に助けを求めていたのかはわからないということになる。いろいろな気持ちが錯綜していて「整理されていない」可能性もある。ワイドショーは密室の中で混乱する内心を全て見ているのだが、そもそも虐待には興味がないので、全てスルーしている。そして三田友梨佳さんはそれを「優しいアピール」に利用してしまうのである。三田さんの興味は「ジャーナリストな私」をアピールすることなのである。
社会化されずに混乱したままの内心が社会にぶつかった場面が赤裸々に映し出されている。だが見ている方は視聴者も含めて社会に興味がないので、誰も気がつかないというかなり凄惨なショーがおそらくメジャーなニュースがなかった時間の穴埋めとして展開されている。
もちろん、三田友梨佳さんが「生半可な気持ち」でこの問題に首を突っ込んでいるとは思えない。おそらく社会正義の側に立って「真面目な気持ち」で問題に取り組んでいるのではあるまいか。おそらく冒頭の東ちづるさんのつぶやきも同じなのだろう。
犬の虐待問題を解決したいならば、まず虐待者のメカニズムについて考えなければならない。そしてそれが解決可能であれば手助けし、解決可能でなければ(先天的に共感が持てない、あるいは心理的に固着していて解決に長い時間がかかる)なら関係を解消する必要がある。「そもそも犬を飼うべきではない」とか「子供を育てるべきデではない」とは言えるが、実際に犬は飼われており子供は存在する。
密室化した家庭での虐待問題が解決しないのは内心を社会化する機能がないからだ。子供やペットを愛するということすらできない人がいるということを、これが当たり前にできている人には理解できない。
さて、ここまで長々と虐待について考えてきた。個人の内心が歪んだ形で発露するがそれを受け入れ可能な形に矯正することができないので問題が解決しないというような筋である。
前回、ヘイト発言についてみたのだが、これがどこからやってきたのははよくわからなかった。結果的に内在化した苛立ちが「韓国をいじめる」という正解に向かって暴走していることはわかると同時に「社会に表明すれば必ず問題になるだろう」ということもわかっているようだ。つまり、そもそも病的であるという自覚はあるのだ。
これまで「日本人には内心はない」と考えてきたのだが、実は内心はあるようだ。問題はそれを社会に受け入れ可能な形に躾けることができないという点にあるようだ。社会にはあらかじめ決まった<正解>があり、そこに内心の入り込む余地はない。そこで内心は家庭という密室の中で暴走するか、匿名空間で暴走するのだということだ。
西洋的な内心(faith)は個人が持っている感情を社会に受け入れ可能な形でしつけて外に出す役割を果たしている。だからFaithという好ましい印象のある言葉を使うのだ。匿名で暴走する正義感はユングで言う所の「劣等機能」のようになっている。つまりヘイトというのは社会版の「中年の危機」ということだ。
この社会版の中年の危機は社会に受け入れられることはないのだが、逆に「抑圧を試みる」人たちに逆襲を試みることがある。先日Quoraで見た「ヘイト発言もひどいが、逆差別にもひどいものがある」という訴えはこのことを言っているのかもしれないと思う。さらにその鬱屈した感情を利用すれば「票になる」と考える政治家もいる。
劣等機能から出た歪んだ正義感が社会に居場所を見つけて正当化したらどうなるのだろうかと思った。あるいはナチスドイツの暴走もその類のものだったのかもしれない。ドイツ民族という傷ついた民族意識はナチスドイツに議席を与え、最終的にはユダヤ人の大虐殺に結びついた。彼らが傷ついた民族意識を持っていたということに気がついたのはずっと後のことだった。
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改めて考える – 統計が読めない・作れないというのはどういうことなのか
今回は統計について考える。統計が信頼できずまともな統計が取れないとはどういうことなのかという問題だ。が、統計の話は最後に少しだけ出てくるだけである。
もちろん政府が統計を誤魔化すこと自体が悪いことなので、統計問題の是非など考えなくてもいい話ではあると思うのだが、一通り考えを巡らせたほうが立体的な像が描けるかもしれないと思った。
前回、人は答えがないとムキになるという様子を観察した。これを政治議論に当てはめたい。TwitterやQuoraの政治議論を見ていて不思議に思うことがある。普段の我々の暮らしでは政治について議論になることはない。それはなぜだと聞くといろいろな答えが返ってくる。しかしいまひとつ納得できるものがない。よくよく考えてみると生活実感のある政治ネタは少なく、憲法や外交といった大きな問題を語りたがる人が多い。そしてそれはなぜなのだと聞いてみても誰も答えを持っていない。
まず生活実感について聞いてみたのだが「景気がよい」と言っている人は一人もいなかった。かといって安倍政権が悪いと考えている人は実はそれほど多くない。大きな政治課題(外交や安全政策)についての議論は比較的好調なのだが、暮らしに結びついた政治になると途端に答えが減る。
ところが大きな問題についてもその基礎知識は実は極めて曖昧だ。イデオロギーの基礎概念の知識も不確かで、統計についての知識もほとんどない。実はかなり目をふさがれた状態で議論をしている人が多い。ところがなぜかみんな「正解」は知っているのである。
非常に奇妙な状態で、これをすんなり説明できる理屈がない。最初は「自分たちが動いたところで生活が変わるはずはない」という諦めがあるのではないかという可能性を探ってみた。だが、どうもそれだけではなさそうである。
しばらく考えていて別の要因を思いついた。それが正解へのこだわりである。Quoraの質問で怒られることがある。「背景情報」がわからないと言われることがあるのだ。最初はなぜこれが怒られるかはわからなかった。フレームがないなら仮置きして答えればいいからである。いろいろ話を聞いたりして「その場の正解」を言いたい人にとっては、この答えを書いても「正解にならないこと」がとてつもなく不愉快なのではないかと思った。さらに正解を暗記しているだけでは問題の穴埋めもできない。
文脈がわからないと正解を言えないので怒り出す人が多い一方で、揺れがある状態でフレームを勝手に決めて「楽しみましょう」という人はあまりいない。そこで、MBTIテストを思い出して「あなたは何のために議論をするのか」を聞いてみた。自分でもやってみたところ「議論を楽しみ場合によってはdevil’s advocateにもなる」という類型だった。いろいろ探してみて、MBTIだとだいたい三つくらいの類型があることになりそうだと思った。枠を作って回答を絞るとフレームが明確になるので答えが付きやすくなる。
- 議論そのものを楽しみたいタイプ
- 理解し合うために交流したいタイプ
- 問題解決のために交流したいタイプ
聞いてみたところ、議論そのものを楽しめるし場合によっては悪魔の使徒にもなれる人もいた。逆に議論に嫌悪感を持ち問題が解決しないなら議論は意味がないという人もいた。そして少数ながら共感型の人もいた。だが、このほかに「正解を出してみんなをあっと言わせたい」人も多いのかもしれないと思った。これはユングの類型にもMBTIにもない類型だし、正解を言いたいと自己申告する人はおそらくいないだろう。
だが、日本人には意外とこういう人が多そうだ。例えば、MIDI規格についての知識とか専門の数学分野での知識とか調味料の違いについての知識などは時々専門家が出てきて詳しい正解を解説してくれる。つまり、ドメイン(専門領域)が明確であればあるほどやることがはっきりしてくるので基礎知識と経験に基づいた正解が出しやすくなり、フレームがはっきりせず正解がないと不安になってしまうのである。日本人はこうした職人型と職人の調整型は多いのだが、モデレータータイプはあまり活躍が出来ないのではないかと思う。
この正解を知っていて正解を代表していると思っている人が得られる心理的満足感はスパゲティ論争を見ていてもよくわかる。かつてはスプーンを使ってスパゲティを食べるのが日本の正解であり、今ではスプーンを使うのは不正解だ。そして正解を知っている人はどうしても自分が正解を知っているということを認めさせたいのである。が、冷静に考えてみるとどうしてすべての日本人がイタリア人に成り代わってパスタ・ポリスにならなければならないのかはよくわからない。それでも日本人は正解を語りたがる。
MIDI規格について書いている人が面白いことを言っていた。今のMIDI規格はシンプルで柔軟性があるそうで、それが残って欲しいと言っている。ところが現在MIDI2.0の規格化が進行していてこれが過去のものになりそうなのである。つまり、ドメインでの正解にこだわるとそこから抜け出せなくなってしまう可能性もあるということである。ドメインが人工的な村落になってしまうのだ。
正解のある製造業でも正解にこだわりすぎると時代について行けなくなる。ましてや政治経済のように正解を導く式から考えなければならなくなると、人々はとてつもない不安に襲われてしまうのである。現在の政治議論は相手の人格攻撃や業績の否定ばかりなのだが、これは実は正解がわからなくなりパニックを起こしているからなのかもしれない。一方「国家イベント→コンクリート工事」のようなものが得れれるととたんに雄弁になる。この正解を持っていて「かっこよく見える」代表格が宗教的正解に支えられた公明党の質問者たちだろう。
では、みんなで新しい正解をつくるために新しい式を作りましょうとなったところで、「今どうなっているのか」ということがわからなければ議論を始めることすらできない。そこでやっと出てくるのが調査と統計だ。調査と統計がないがしろになっているのは、実は正解にこだわり続けることによる安心感があるからもう現実は見なくてもいいですよということなのだろう。
生活実感のあるところで政治課題が語れないのは人々が自分たちの暮らしの中では正解が探せなくなっているということを意味しているのではなかと思う。そうなるとあとは他人を非難して毎日をやり過ごすしかない。そこで、人々は安心して語れる外交や安全保障といった政治議論に逃げ込んでお互いを攻撃し始める。この辺りだと括りが大きすぎるので他人の答えをコピペしただけで済んでしまう。これが現在の政治議論の正体だ。
実は、政治家も統計が読めないがゆえに経済政策が作れない。朝生で田原総一郎さんが「野党には経済対策がないから国民が自民党で我慢しているんだ!」といって怒っていたが、野党の人たちにも自前で統計を取ったり経済政策を組み立てられる基礎知識がないのではないかと思う。自民党は政府の言っていることを聞いていれば議員としてやって行けるのだが、野党は経済政策のフレームから作って行かなければならない。だから野党にこそ調査統計の基礎知識が必要なのであり、今すぐ政府攻撃をやめて自分たちで信頼できる統計を作るべきである。マスコミが野党統計を信頼するようになれば政府の統計は規模が大きくても紙くずになってしまうだろう。
多分、この国で政治経済の議論ができるだけの基礎学力がないというのは我々が思っている以上に深刻な問題を引き起こしていると思う。実は問題を解決するのは簡単である。政府の統計にはもう信頼はないのだから、単に信頼できるサンプル調査を自分たちで作ればいいのだ。
社会的劣等機能の発露としてのTwitter
先日西部邁さんについて書いた。いろいろと曲がりくねって書いたのだが、最終的には自決権(ご本人は自裁権と言っているそうだ)というのは考えようによっては、創造性をなくし自滅の道に進むのではないかというような筋になった。保守は日本人の美点を見つめるのと同時にその欠点をも無自覚のうちに内包してしまい、これが破滅への指向性になりえるのではないかと考えたわけだ。
保守の欠点は明らかだ。彼らは「不確実性」が取り扱えないのである。西部さんの著作は読んだことがないので詳しいことはわからないのだが、バブル期の「朝まで生テレビ!」が殴り合いに近い言論を繰り返していたことからみると、協力して不安やリスクというものを分担しあうのが苦手なのだと思える。リスクを計算して分散したり出方がわからない人たちと対話するのが苦手なのである。
こうした指向性がどこから出てくるのかはわからないのだが、彼らが西洋流の左翼思想をキリスト教の伝統なしに理解し後にそれを保守に取り入れたからなのかもしれない。もともと日本人は神道の伝統と中国的な思想を通して「曖昧さ」を理解していたはずだ。しかし、なぜだか戦後の保守思想は一神教的を偽装した何か別のものに変容してしまう。
一神教の概念はいまでは「国体」という絶対神への帰依として理解されている。これはかなり一般的に浸透しているようだ。先日、Twitterで軍事や憲法第9条について考えている専門家に「自衛隊は国民を守っているわけではない」と突っかかっている人を見かけた。この人は明らかに日本を日本人の総体とは考えていない。つまり日本国ー国民=何者かが残ると考えているのだろう。
もともとの日本の神道が教義を持たないことを考えるとそれはかなり奇妙な転向である。もちろん個人で見ると保守論壇にも曖昧さを理解できる人たちはいるのだろうが、少なくとも集団としての彼らは他者が理解できないだけでなく、日本が本来持っていた曖昧さすらできなくなっているように思える。そして、それが絶対的な教義を生み出している。
日本の神道が教義を必要としていなかったのは、人間が理解できないものへの畏れを主に実践を通して示していたからなのだろう。今のように「国体」という教義を使って他人を恫喝したり従わせようとするのは少なくとも伝統的な神道ではないように思える。
さて、ブログをお送りする側としてはそこで「人間は全てを見透せるわけではなく、だからこそいつも可能性が残されているのである」というようなことが言いたかった。創造性の源としても不確実性は重要である。例えば、政策議論としては「やはり文系の学問も大切だ」というような結論に誘導されるだろう。
ところが、どうもそう受け取った人たちばかりではなかったようだ。中には「本当にそんな気がする」という感想を書いてこられた人もいたし、Twitterでも「言語化してもらってありがたいが不安が増した」などという人がいた。「日本は確実によくない方向に向かっている」という印象があるのかもしれない。
このブログは当初「創造性」を扱っていた。第一次安倍政権が倒れた頃には、日本にもアメリカに倣ってイノベーションを起こすべきだなどという機運があったからである。特にシリコンバレー風のイノベーションセオリーやユングについて扱っていた。
例えば「イノベーションの達人」のようにイノベーションを起こすためにはどのようなチームを作るべきかとか、ミンツバーグの「戦略サファリ」のように成功する戦略には決まり切った形があるわけではないというような本を読んだりしていたのだ。
さらに心理学の中にも「人間には扱いかねるような危険な創造性」があり、それを磨いてゆくことでそれぞれの人の「私らしさ」を追求して行くことができると考えている人もいる。ユングのタイプ論の要点は「表に出ていない」危うさをどう成長に結びつけて行くことができるかということを研究している。
しかしながら、こうした記事が読まれることはあまりなかった。日本人は手っ取り早く成功事例を取り入れたいと思うのだろう。成功者の話は読みたがるがその背景にある理論などには無関心だ。
そうこうしているうちに政治について扱うようになった。東日本大震災の不安もあって民主党政権が挫折し、リベラルな風土に根ざしたアメリカ流のイノベーションもリーマンショックとともに流されてしまったという扱いきれない不確実性が波状的に襲ってきていた時代である。
現在はあまりにも大きかった不確実性にうまく向き合えないという時代だ。日本では「自分たちでも改革ができる」と主張していた民主党が「失敗」したし、アメリカでも「Yes, We Can」と人々を鼓舞していたオバマ大統領が否定されてトランプ大統領による「Make America Great Again」が支持を集めている。
保守と呼ばれる人たちは「不確実性などなかった」と考え、自分たちが理解できる価値体系に戻ることができれば全ての問題はたちどころに解決すると考えている。しかし、それ以外の人たちも漠然としていて言語化されていない不安を持っていると同時に「もう社会としては成長などできるはずがない」という確信を持っているようである。
問題さえ見えてくればあとは克服する方法を考えればよいだけなのだが、どうもそうは思えないという人が少なからずいるということになる。むしろ、問題そのものを見てそれに圧倒されているというのが現状なのかもしれない。
ユングは個人の問題としての劣等機能に着目したのだが、社会や集団にも劣等機能があるということになる。不確実さを扱えないことだと規定したのだが、直線的で分析的なものの見方が得意な社会であり、不定形で感覚的なものを扱えないということなのではないかと思う。これについても引き続き考えて行きたい。
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人を釣る科学
釣りの科学を一言で現すと次のようになるようだ。「認知的不協和を改善する情報がある」とき人は釣られる。釣られたくなければ「認知」を持たないことだ。だが、これはなかなか難しそうだ。
甘利大臣が辞任した。これは安倍支持者にとって認知不協和になったようだ。そこで「甘利 陰謀」とか「甘利 黒幕」で検索する人が増えたのだ。
安倍首相は大きな支持を集めている。それは安倍首相が人々の欲求を満たしているからだ。安倍首相のメッセージは「あなたは変わらなくてもよい」と力強く一貫している。悪い事は全て「敵」の仕業であり、敵とされているのは民主党と中国・韓国だ。裏側には「このままではすまないのではないか」という不安があるのだろう。
ところがうまくいっているはずの安倍政権に汚職事件が起きた。そこで認知的不協和が生じることとなった。週刊誌報道で疑念が芽生え、辞任劇で不協和が頂点に達した。爆発的な検索の増加はそこのことを物語っているようだ。
いろいろな話を書いているのだが、読まれないものも多い。にも関わらず冗談で書いた記事ばかりが読まれるのは面白くない。そこで「じゃあ、釣ってやれ」と思って書いたのが「マイナス金利」に関する記事である。ちょっとだけダークサイドに堕ちたのだ。
多くの人にとって「マイナス金利」はよく分からない概念だ。漠然とした不安を感じている人も多いようである。一般の人だけでなくプロの編集者にもそうした感想を持っている人がいた。
なんかもう、とてつもないことが起きようとしているイヤな予感しかない…。経済学を専攻してないので、理論的な説明も理解もできてないのだけど、「資本主義社会」の根底を揺さぶるような…。
— 新田哲史・アゴラ編集長@初の著書発売なう (@TetsuNitta) 2016, 1月 29
そこで、直感的に「個人の危機感と曖昧な情報を結びつければ人を動かせるのかもしれない」と思ったのだ。前日に日本の銀行とアメリカの銀行について書いたので、基本的な情報は持っていた。30分程度で書いたのが「マイナス金利になると銀行口座が持てなくなる」というものだ。
案の定、アップしてから10分くらいで8人が読みにきた。そしてそのままいなくなってしまった。今朝確認したところ読者の総計は10名だった。結局10人が釣られたのだ。
マイナス金利のニュースが抱える認知的不協和は「経済は安定している(べき)」というものと「持続可能性に不安がある」というものだろう。マイナス金利という聞き慣れない言葉を聞いて、その不安が顕在化しかけたのだと思われる。引用した呟きには「将来の不安」だが、これは「現在は安定している(はず)」という意識の裏返しである。
この記事には嘘は書かなかった。経済が不順になり金融機関が利益を得られなくなると、結果的に低所得者層にしわ寄せが行くというのが、アメリカの銀行が教えてくれる教訓だ。金融緩和策は、経済不調の結果なので、金融緩和と銀行口座が持てなくなるというのは双方とも「果」ということになる。原因は経済が不調で金融機関を儲けさせるだけの事業がないことだ。
今まで観察したところによると、日本人は議論のプロセスを無視して「問題」と「答え」だけを知りたがる傾向にある。情報が流れて行くTwitterではその傾向はさらに強くなるだろう。5分で答えだけが知りたいのだ。
この記事はシェアはされなかった。アメリカではマイナス金利政策は実行されなかったからだろう。プロセスや構造は無視されるので、「因果関係がなかった」ことが「証明」できたということになる。「明日も暮らし向きは変わらない」という安心感も得られたのではないか。認知的不協和は解消されたということになる。
閲覧数が多いブログを書きたければ、情報が不確実で欠損があり認知的不協和のありそうな分野の記事を書けば良いことになる。ただしそれが「人気を集めるブログ」になるかどうかは分からない。
この分析を裏返すと「需要のあるブログ」は作れそうだ。既に人々の頭の中には「認知」ができあがっている。安倍支持者たちは「自分たちはうまく行っていて、悪い事はすべて民主党(中国・韓国)のせい」と考えており、反安倍支持者たちは「世の中はうまく行っておらず、悪い事はすべてアベのせい」だと考えている。その認知は(恐らく多くの場合は)間違っているので「穴」を埋めるための情報が常に求められるのだ。それを書いてやれば、多くの人は「共感する」だろう。
もし情報に流されたくないのなら、余計な認知を持たずに情報を見極めるべきだということになる。人間は情報プロセスの負担を減らす為に認知経路を作るように設計されているのだから、これはなかなか難しいことなのかもしれない。
安倍首相はなぜ国民を怒らせたのか
ひっかかりのない思考的議論
ツイッターで安保法制の議論を読んだ。アメリカ政治の専門家によるテクニカルなもので、とても退屈だった。もし、政府の議論がこのようなものだったら、国民を二分する議論にはならなかったのではないかと思った。感情に訴えかける余地がないからだ。
価値判断に重きをおく安倍首相
一方、安倍首相の説明はよくも悪くも国民の感情に訴えかけた。結果的に、安倍首相は集団的自衛権の議論を混乱させた。
安倍首相は「価値観の人」だ。価値観の人は特定の価値を共有して理解を深めようとする。安倍首相は同盟関係を評価するのに「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」という言葉を使う。一方韓国は「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」ではない。敵味方がはっきりしているのも価値観の人の特徴の一つだ。
安倍さんの主張は仲間内で大きな賞賛を集めた。雑誌WILLなどを読むとこのことが分かる。彼らは安倍さんと価値観を共有しており「そもそも、美しい国を守るのに、面倒な理論は要らない」という主張を持っている。自民党が下野している間も信頼関係は揺らがなかったので、必ずしも利権などの損得で結びついているわけではなさそうだ。
価値判断と損得判断の遭遇
集団的自衛権行使容認派の中には「戦略的思考」を持つ人たちがいた。戦略的な人はいろいろな検討をしたあとで、どのアプローチが得か考える人たちである。彼らは自分たちの主張を通すために「価値観の人」を取り込むことにした。知恵を授け理論構築と整理を行った。アメリカからの要望はおそらく戦略的思考に基づいて発せられたものだろう。外務省にも戦略的な人たちがいて、アメリカの要望を理解したに違いない。
オバマ大統領は様々な意見を聞いた上でどちらがアメリカの国益に叶うかを考える戦略的指向を持っている。時には双方の主張を折り合わせることも検討するバランス型でもある。ところが、安倍首相は価値観の人で「どちらが正しいか」は最初から決まっている。オバマ大統領が当初安倍首相と距離を置いたのは、性格に大きな違いがあったからではないかと考えられる。
直観と感覚の相違
ここで行き違いが起こる。安倍さんが「感覚的」な人だったからだろう。感覚的な人は、背景にある論理を直感的に捉えるのではなく、興味がディテールに向く。戦略的思考の人たちが論理から例示を導いたのに、例示だけが印象に残ったのだろう。
戦略的な人が直感的に捉えれば、個々の例示から背景にある論理を読み取ったに違いない。戦略的思考を共有している外務官僚に任せていれば、それなりの答案が出たはずだ。ところが、細かな例示にばかり気を取られる政治家は「あれもこれも」実現しなければならないと思い込む。政治主導が発揮しているうちに、例外のある複雑な理論が構築されてしまったのではないかと考えられる。
価値観の人が秩序の人を怒らせる
安倍さんが次に困惑させたのは、憲法学者や元法制局長官などの「秩序の人」たちである。秩序の人は損得や正しさよりも論理的な秩序を優先する。彼らにとって正しいのは「法的な整合性が整っている」ことである。安倍首相の「正しければ、整合性はどうにでもなる」という考えが彼らの反発を生み「立憲政治の危機」という発言につながった。
皮肉なことに、安倍さんの憲法無視の行動は、アメリカさえ刺激しかねない。フォーリン・ポリシーは「憲法クーデター」という用語を使っている。「民主主義、法の支配など普遍的価値観」への挑戦だと見なされているのだ。「憲法クーデター」を根拠に動く軍をアメリカが利用するわけにはいかない。アメリカは、少なくとも表向きは「民主主義という価値観」を守るために行動しているからだ。
価値観のぶつかり合いは感情的な議論に火を付ける
秩序の人たちは、価値観の人たちから「合憲であれば正しくなくてもよいのか」と非難され、戦略的な人たちからも「合憲であれば損をしても良いのか」と攻撃された。加えて「平和憲法こそが美しい日本の根幹をなす」という価値観を持っている護憲派の人たちも加わり、議論は思考のレベルを越えて感情のレベルで火がついた。
感情的なぶつかり合いは戦略的思考を持っている人たちに利用されることになる。民主党の枝野さんたちは、戦略的にこの混乱を利用することを考えた。そこで「いつかは徴兵制になる」という感情的な議論をわざと持ち出して護憲派を刺激した。感情的議論はついに主婦にまで飛び火した。
稚拙な論理が聴衆を困惑させる
この時期になって、良識ある人たちは遅まきながら「法案の内容を理解しなければ」と考えるようになった。しかし、最初から理論が複雑な上、安倍首相の意図の全体像も明らかにならなかったので、当惑されるだけだった。
遅まきながら安倍さんはインターネットテレビに登場し「麻生君と安倍君」の例を使って集団的自衛権を説明しようとしたが、理論構築があまりにも稚拙なため失笑を買った。
価値観を中心に議論している人たちにとって「仲間を助けるのは当たり前だ」という単純な議論が伝わらないのは不思議に思えるかもしれない。丁寧に話せば分かってもらえると考えるのも無理のないところだろう。ところが、相手が聞きたがっているのは「彼らの価値観」ではないかもしれないのだ。
リーダーにとってコミュニケーション戦略は重要
「理解」の質は様々だ。価値観の人たちは「どちらが正しいか」を考え、戦略的思考の人は「どちらが得か」を評価したがる。大枠で理解したいと思う人もいれば、細かな状況に注目する人もいるのである。
安保法制の是非はともかくとして、このケースは多様なコミュニケーションを理解することの大切さを教えてくれる。コミュニケーションスキルのないリーダーを選ぶと国益さえ損ねかねないのである。