今日のテーマは日本人が不倫を執拗に叩くのはなぜかというテーマで考える。このテーマの一番難しいところは「そんなことを考えて何になるんだろうか」という点にある。
鈴木杏樹さんがラジオ番組を降板した。男性が別れるといったのに別れておらず不倫状態にあったと鈴木さんは主張している。そして、報道は出たばかりだったが「おそらくバッシングが起こるだろう」ということを予測してラジオを降板してしまった。
鈴木杏樹さん関連のニュースを見てみたが妻の立場に立っているかのように見えるものが多かった。匂わせているのではないかというのだ。だがちょっと考えてみれば騒げば騒ぐほど傷つくのは妻であることがわかる。おそらく妻への同情というのは単なる騒ぐための道具立てなのだろう。そして喜多村緑郎さんが責められることはない。彼は制裁の対象になるある条件を欠いている。ではなぜ鈴木杏樹さんだけが人民裁判の被告席に座ることになったのだろうか。
まず最初にはっきりさせておきたいのは「鈴木さん叩きが過熱するのはいけないことだ」という点である。こんなことが横行すれば社会がゴミ箱になってしまう。これまで「日本人は社会に関心を持たない」と書いてきたのだが、そんな日本人が唯一社会に関心を持つことがある。他人を罰する時だけは公共とか社会を使うのだ。
政治の不祥事から不倫のようなプライベートな事柄まで「社会的に罰してもいい」という認識が共有されると執拗な攻撃が開始される。政治の場合には叩いても何も変わらないということがわかってきたので人々は政治に関心を持たなくなったが、叩かれた相手が社会的に制裁されると攻撃はエスカレートする。叩くと相手が痛がるということを学習するからだ。この構造はまさにイジメである。
その陰湿さは当人たちも理解している。おそらく実名で「不倫は罰せられるべきだと思いますか」などと質問しても「そうだ」という人はいないだろう。つまり、日本人はそれがどこか後ろ暗く「人に言ってはいけない」ということはわかっている。だが群衆になった日本人は叩けるものはなんでも叩く。おそらく普段にこやかに道を譲り合っているような善意に満ちた人もSNSでは石を投げていることだろう。
こうしたことは日常生活では取り立てて珍しいことではないようだ。発言小町では女性同士が毎日取るに足らないことで盛大に叩き合っている。中には共感を示しておいて相手の懐に潜り込みぐさっと一刺しするものもある。「私だけ誘ってもらえません」を読んで暗い気持ちになった。これが日本人の日常であり娯楽なのだ。
不倫バッシングはおそらく誰もいないところでゴミを捨てるのと同じ感覚なのだろう。つまり「感情の不法投棄」だ。不倫バッシングはマスメディアの飯の種になっているのだが、実際にやっているのは感情不法投棄の推奨である。そして、感情不法投棄ができるのは「社会は自分の庭ではない」と考える人が増えているからだろう。
おそらく不倫バッシングが横行する社会というのは、感情不法廃棄物が多く排出される失敗したイジメ集団なんだろうと思う。イジメは当事者を特定してもなくならない。問題は環境悪化だからだ。
この辺りで「不倫バッシングについて考えて何になるんだろうか」と思った。ただひとつ言えるのはこの件で傷ついたのは鈴木杏樹さんと奥さんの貴城ケイさんだけだということである。喜多村緑郎さんは新派の役者なので「不倫くらいは芸のうち」と思われているのではないか。つまり、彼はコマーシャルには依存していない。実はほとんどのテレビ役者というのは「商品を売るための道具」とみなされている。
不倫疑惑の記事は多い
喜多村緑郎さんが傷を受けないのは「チケットを買ってくれる客」をつかんでいるからだ。おそらく不倫がバッシングされる理由の一つにはそもそも役者という商売が成り立たなくなっているからだという現実があることもわかる。チケットを買いもしない人たちだからこそ、何か失敗した芸能人を大手を振って叩ける。つまり、チケットを買わないし社会に関心も持たない人たちにとって不倫疑惑というのはそれ自体がテレビドラマ同等の娯楽だということだ。人々はテレビの芸能人を叩くだけでなく、発言小町のような道場まで作り、叩き合う技術を日々鍛錬している。
次のターゲットはあなたかもしれない。